宇宙船と砂漠で足跡

こんにちは。 こんばんは。 おはようございます。 flyingsapceshipと申します。 こちらのはてなブログでは好きなもの、きらいなもの、気になるもの、考えたことがあれば、私ならではの少ない語彙と拙い文章による書置きスタイルでお送りしようと考えています。

食べもの好き嫌い

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こちらでは好きなもの、きらいなもの、気になるもの、考えたことがあれば、私ならではの少ない語彙と拙い文章による書置きスタイルでお送りしています。

 

小学校低学年まで、食べ物の好き嫌いは無いが、とにかく少食で食べるのも遅かった。

偏食では無かったので、親や教師から無理に「食べろ」とは言われたことがない。「がんばって食べ終わって」と励まされたことはある。

 

幼稚園の頃から身体が小さく、姉や親や親戚から、「なんでも食べないと大きくならないよ」と脅されていたので、素直に好き嫌いなく食べていたと思う。人参もピーマンも嫌いになった覚えがない。

 

とりあえず、その頃から同級生と比較すると小さい自分の身体は嫌だったんだと予想はできる。

 

あれ食べなさいこれ食べなさい食べないと○○だよ、とか言う不毛な時間は無かった。代わりに「左手を使うな」と言ってきたのは母方の叔父だったが。今だったら頭から皿に突っ込んでやろうかと思う。

 

素直で真面目な子供だったので、特別な好き嫌いなく歳を重ねたが、一向に「大きく」なる気配はなく成人し、今に至る。

 

成人してから親戚の集まりで、幼稚園児から中学生くらいの子供と食事を共にした時、彼らは一部の料理を指し

 

「なにこれ?わかんない」

 

それに対し彼らの両親たちは「せっかく良いものなんだからなんでも食べておきなさい。成長期なんだから」と言う。

 

捻じ曲がって真っ直ぐ育った私は

「大きくなるならないは関係ないから今のうちに好きなだけ好き嫌いしておけばいいよ。大人になったら人前で好き嫌いどうこう言いにくくなるんだから。今のうちに好きなものの美味しいとこだけ食べな」

と言った。

身体がそれを証明してるので、彼らも「それもそうかも」と思ったのか好きに食べた。

 

人参やピーマンを無理にでも食べさせようと奮闘する親の気持ちも、まぁ考えなくも無いが、その人参とピーマンにどれほどの成長因子があるというのか。

 

大人になってから恥ずかしいとか言うこともあるが、もともと恥ずかしい人間性の奴は恥ずかしい大人になるし、判断力がある奴はうまくやるだろう。

 

大人の子供への脅しは、なんのソースも無いなら言うべきではないと思う。

私は人の親ではないので無責任にこういうことが言える。

 

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伝えたいことは少数精鋭の言葉たちに

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人になにかを伝えるということが難しい。

 

私は、人には基本的になにも伝わらないと思っている。

それぞれに自我と欲求と方針が、それぞれの数だけある。

それでも、伝える意欲を示さないと同じ空間に友好的には居られない。

 

「伝える意欲を示す」。それもコミュニケーション能力のひとつだと思う。

実際伝わるかどうかは、論理的な思考力と語彙力と想像力という能力値に頼るところが大きい。

だから、本当にただ伝えなくてはいけないことならば、私は「相手にどうして欲しいか」しか言わないことが多い。

言葉が少ないために伝わらないこともある。伝わらなかったら伝わらなかったで、少ない単語から認識の差を確認する機会になるので、単語を増やして情報をあやふやにするより解決が早いし、今後の意思疎通方法に役立てられると思っている。

 

ところで、私はコミュニケーション能力を「伝える意欲」で測っているため、プライベートでは『コミュニケーション能力は低い』と自称している。

伝える意欲はあまり無い。「伝える」というのは、相手の思考の何バイトかの容量を間借りすることになるからだ。それは私が好む事態ではない。

 

このブログも、「伝えたい意思」というより、聞き(読み)流してもらえるだけで嬉しい。それで1〜2%くらい印象に残ったものがあれば、それがその人にとっての私(の全て)になる。

 

となれば、私(というイメージ)は、その、人の数だけ発生する。

そのほうが面白い。

私という人間はひとりだけれど、これを読み流した人と友人の数だけ、違う私がいて欲しい。

 

私がこう考えるのは、たぶん、「私」という人間の責任をとりたくないからだと思う。

ひとりの生きた人間の「責任」なんて、ただのひとりの人間でしかない私に取れるわけない。

とても不真面目で不誠実だ。ただ、ひとがひとり死んだ時の手続きやその後の後片付けなどを知ると、ヒト1人の「生きたあと」というものの大きさに怯む。

あと、2年前私は持病のアトピーで1週間入院したわけだが、私はそれを思い出すとつい、

アトピーが落ち着いてそれはプラスだけど、入院した分を取り返せる純利益なんか出せないから、結果マイナスで生きてるんだな」

などと考えてしまう。金額的にも時間やその密度的にも。

負担になるような責任は負いたくないため、私という人間の責任を少しでも分散させたいのだ。

 

生きる上での軸とか、座右の銘とか、まったく興味がない。無宗教も宗教、みたいな話になるかもしれないが。

とにかく、ちゃんと生きる、みたいなことは負担だと思ってしまう。

 

生きるとか人生とか言われると、途方もなく遠い未来や自分が自分でコントロールできなくなった自分までも考えてしまい、「『ちゃんと』やりたくないな」と思うが、仕事は常に目の前のことだから「ちゃんとやらなきゃ」と思って真面目にやっている。

生きるとか人生とかは、『ちゃんと』やりたくない。投げ出して誰かに押し付けられるなら押し付けてしまいたい。

 

でもそれが出来ないから、それなりの普通を目指している。それが一番、私の中で崇高なものなのかもしれない。

 

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根暗が想像する仕返し

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友人2人に「Twitterがこわい」と指摘された。

 

特に、「何か嫌な目に遭わされた時の仕返しの仕方が具体的でこわい」らしい。

 

なにか嫌なことや腹がたつことがあったら「ムカつく」とか「ふざけんなよ」とかで済ませばいいのに、なぜ、具体的に仕返しを言葉にして全世界に配信するのか。

 

私はそんな言葉だけでは、自分の憤りを表現しきれない。

人が歌わないといられないことと同じだ。

 

それを全世界に発信しているのは、人に不快に思われるようなことをしたら、いつかそうやって仕返しされるかもしれないと、全世界の誰かが思って、人間の行動に責任を持って欲しいからだ。

おそらく届かないだろう。「届かないよそんなの」と言う人がほとんどだろう。

 

そうやって、なにもかも諦めたら「ムカつく」と「ふざけんなよ」と「ヤバイ」だけで満足した気になれるだろう。

ただ、そんな欺瞞を繰り返していたら、突然何も言わずに無計画な復讐に手を染めるかもしれない。

Twitterで具体的に、想像できる例を挙げることで、一時的に自分の無闇矢鱈な暴力性の熱を冷ましているのだ。

 

普段どんなに平和な社会生活優先の人間でも、嫌な目に遭わされたら、その立場を守りながら、なんとかして復讐しようと考える場合もある。

 

だれにも暴力性は存在する。

自分をコントロールしているつもりで、抑え込んでいるだけで完全に自分の暴力を支配しているようないい気になっていると、いざという時、瞬時に自分を守ることもできなくなる。

 

「自分だけは加害者にも被害者にもならない」などという奢りは、散々学校生活程度の理不尽さの中で「クソだった」と学習しなければならない。

 

ただ、根暗がよくやっている「学校にテロリストが来たら」という妄想と同じだ。

 

しかし、これはいつ自分が加害者になるかわからないから、事前にTwitterで全世界に発信することでストッパーになる。「今実施したら確実にクロ」というストッパーだ。

絶対にやらないために頭の中で具体的に復讐するのだ。

 

ぼやっとした、言葉にできない不満をいつまでも溜め込んでいる奴の方が危ない。

 

デトックスだ。

 

ただ、「こわい」と言われたのでおとなしく、人体への直接的な復讐は避けておこうと思った。

 

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ドラマを見て結婚できないと思ったこと

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タイトルからして暗い気持ちにさせてしまうかもしれない。

ただ、私自身はなにも落ち込んだり悲しんだりしていない。

ただ、「わかった!そういうことか!」と視界が広がった感じなので、むしろ清々しい気持ちだ。

わからないままモヤモヤするより、自己完結でサッパリしたような気持ちになる。それが30代独身女のあるべき姿だ。

 

タイトルにある通り、先週まで毎週楽しみに観ていたドラマがあった。

私にしては珍しく、時間通りにテレビの前でじっとして観ていた。

テレビ東京の『きのう何食べた?』だ。

私は原作のファンにカテゴライズされるが、テレビドラマも楽しく観られた。

世間的にもかなり好評だったと思う。

 

私も観ていて、「こんなパートナーと一緒に暮らすの、羨ましいなぁ、いいなぁ」と率直に思っていた。

 

先週は最終回だった。

シロさんとケンジが、昼間にふたりで女性客の多いカフェに行った。

簡単に言うと、少し前のシロさんなら、パートナーのケンジとふたりきりで人目に晒されるような場所に行くのは厭う傾向があった。最終回までに、様々な登場人物やケンジとの交流や生活が描かれたドラマだ。

ケンジが本当ならシロさんはカフェに居るのが本意ではないのでは、と、それでも来てくれてありがとうと伝える。シロさんは、「もういいかなと思って」と言って微笑む。ケンジはそれを見て安心したように、嬉しそうに微笑む。

 

それまで、「いいなぁ」と思って観ていたが、その場面だけは私は「こわいな」と思った。

 

私がケンジの立場だったら、「こわい」のだ。

 

好きな相手が、自分の目線から見たら、自分の影響で「変わった」からだ。

 

ドラマの中では、勿論ケンジの知り得ない、シロさんが受けた影響は数ある。シロさんもケンジも「孤独なひと」ではなく、家の外、社会生活があってそこでの交流も描かれているからだ。

ただ、ケンジから見たらその変化に少なからず自分が関わっていると考えられる。

 

私は好きな相手に影響したくない。影響を与えて、変わらせてしまうのがこわい。

私が好きになった、もしくは見つけたその時、その相手は『私の好きな人間』としてすでに完成されているからだ。良いところも悪いところも、今まで関わった人間の要素などなど、それらが合わさった状態のその人だからその人なのだ。

 

せっかくの美しい砂の城を、私の手で勝手なアレンジはしたくない。

その砂の城の細部まで、壊さないように20cmほど離れたところから、壁の作りや砂の木理まで観察し、知り尽くし、賞賛したい。

 

だから、極力、相手が私と同じ空間に居ないときは関わらないようにしている。

その人自身の純粋な活動に、私という要素は私が好きな完璧な相手には不純物だからだ。

同じ空間にいるならば、その人のことをきちんと知りたい気持ちはあるが、それが負担になってしまうことは無いように観察する。

 

その人という公式の情報が100%で、それ以外の妄想や考察も不要だ。

 

私がケンジのように、相手が自分の影響を受けただろう変化を見てしまったら、その途端からしばらく離れるか、影響の無いように気をつけるのだ。

自分のせいで人を変えてしまうのは怖いからだ。

 

しかしそこまで考えて、これが相手の立場だったら、と思うと相手に同情しかない。

良かれと思って譲歩したつもりが、それで離れるのだ。

その割には自分に対しての知的好奇心はあるように見えるけれど、私自身のことは分かりにくい。

自分の意見や行動を全肯定するが、それ以外なにも求めることもせず意思が感じられない。一体なにが良くて、なにが目的で一緒に居るのかわからなくなってくるだろう。

 

でも、私はそれで良いのだ。

分からなければ私のことなど考えなければ良い。一緒に居るときにストレスさえなけれはそれで良いだろ、WIN-WINだろ、と思っている。

 

ただ、恋人とか結婚とかは相手に影響され影響させて、お互いの変化を成長と捉えて生活も変わっていくものだと思う。

 

それが恐ろしい私は、結婚できないだろう、という結論に至った。というか、結婚となる前に、私のスタンスに相手がわけわからなくなって離れていくだろう。

 

そうか。ならば仕方ないな。

 

と思った。

私がいずれ誰かに影響されてその愛情スタイルが変わるまで、きっとこのままだろう。

 

しかし、生花も、野生のトラやライオンも、現代ではある程度の人間の関わりはあるが、人間の愛情過多の介入が無いからこそ美しいのではないだろうか。

 

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本を持ち歩く

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最近、小さいカバンを持つことの方が多くなった。

流行もあり、売っているカバンが小さくなりがちであることも理由だし、ほどほどに年をとって毎日通勤していると体力が減り、重くデカいカバンを持ち歩く身体で的余裕が無くなった。

 

カバンの容量が、仕事で必要なものが入る最低必要量までとなると、文庫本1冊を入れる余裕も無い。

 

本を持ち歩けないことが、足元を不安定なきもちにさせる。

少しでも何かを咀嚼しようと、スマートフォンでなにかしら読んでみようとするが、結局Twitterに張り付くだけになる。

 

持ち歩ける知識が無いのだ。

本さえあれば、その本の許容量程度の知識は持ち歩ける。

スマートフォンは、あくまで自発的に調べ物をしなければ、または充電が切れればただの板だ。調べたからと言って、確実な内容が出てくるわけでも無い。

 

なるほど。私がミステリー系を読むことが多いのは、雑学が散りばめられていることが多いジャンルだからかもしれない。

 

私には今、自信を持って言える知識が手元に無い、とそう思う。

「自分の考え」と「知識」は違う。

 

と、ここまでは今年のはじめあたりに書いていた。

 

ここまで自信が無いのに、いまは本を持ち歩くことはほとんどない。

電車に乗る時間が、ほぼ無くなったというのはかなり大きい。

 

あと、今日は生まれて初めて、都内の美容室に行った。

iPadを渡されて、雑誌を読み放題の状態になっていた。

これはかなり効率的だ。

これまで通っていた美容室では、普通に現物の雑誌だったので、アシスタントさんの仕事に、「空気を読んで雑誌を変えるか客に伺う」があった。これがなくなるだけで、読む方も気兼ね無く読める。

ただ、やはり某事務所のアイドルは陰のみだった。

 

iPad、いいなぁ…。

 

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やるもやらないも

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毎日更新を終えた1月3日以降、「月1くらいでブログ更新しようかな〜」などと宣ってみたりもした。

 

やめてみてわかったのだが、ブログ更新しないと、他のやるべきことが次々と思い浮かんでしまって、それで1日が埋まる。その出来事の中で食事をしたりぼうっとしているだけだった。

 

そのうえ、私の性質により、思いついたことはその時にやらなければいけない。

『やらなければいけない』理由としては、その物事の重要性のランクに関わらず、なんでもすぐ忘れるからだ。

思いついたその時、その日に終わるものではないとしても、始めるのはその時でなければなにもかも無かったことになる。

考えたことも、反省したことも、全部、私の思考の中だけだと、消えることで完結する。

 

ブログ更新の時間はそれほど取ってないつもりだったが、毎日更新をやめてみると、できる余剰物はたくさんあったのだ。

では、毎日更新以前は?と考えてしまう。

 

無理にねじこんだルーティンのおかげで、本当はできることがたくさんあると気付けた。

こうやって書くと胡散臭いなにかの概念の勧誘のようだし、意識高い系の『起業(数年で自己破産)』の始まりみたいだ。

 

私はいま、余裕がある、と思える。

お金ではない。

お金ではない。50万くらいはポンと欲しい。

 

昔の、脳の中でワーワーして、好きな雑誌も本も読めなかった時期のことを思うと、時間だけでなく、脳の処理の中にある程度の余裕があると思えた。

思えるか、思えないか、だけでも自分に余裕があるかどうか違う気もする。

 

友人によく「貴方は0%か100%かでしか考えてないね」と言われる。

効率や結果を求めるなら、『はじめる』行動は0%か100%だ。

 

中途半端にやって頓挫したことを『やったけどできませんでした』は詐欺や嘘やまやかしだ。

 

仲間内だけで持て囃される中途半端に成績のいい奴に勉強方法を聴くより、仲は良くないが学年で1番点数を取った奴に勉強方法を聴くほうがいいに決まっている。中学生のとき、そうして、そいつと同じ塾に通い始めた。

田舎町にひとつしかないからと混み合う医者より、病院が乱立する都会にある評判が良く大きな病気に行く。一昨年はそうしてアトピーで入院した。

 

確実な方法を選択したつもりでも、間違うことがあるのに、中途半端に選んで結果が出ないのは当たり前だ。

 

それで不平不満を言うのだけは格好悪いと思う。

格好悪いのはいやだ。

 

ただ、そういう格好悪いところをボツボツと投げ込んでも、みんなが見て見ぬフリもしてくれるぬるま湯インターネッツが好きだ。

 

これから仕事が忙しくなる予定だ。

めちゃくちゃにやる。

中途半端にやってるくせに、給料が少ない、とは言いたくない。めちゃくちゃにやってるから、不平不満も言うのだ。不平不満は言いたいからだ。

 

めちゃくちゃにやります。

仕事をしてる時の自分の方が好きだ。

まぁ、当たり前か。じゃないと金は発生しない。私よりお金の方が偉いからな。

カイジ読みたい。

 

本日も読んでいただき、ありがとうございます。

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毎日更新について

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目標の『毎日更新1年』が経った。

感想は、「つらかった」だ。

最初は良かったけれど、毎日となると後半はつらかったし、具合が悪いときはどうしようか悩んだ。途中でやめかけた時もあったけど結局コソコソ更新していたので、ちゃんと毎日更新になった。

毎日ネタを考えるのも、まずは一文考えておこうと頭を捻っておくのも、大変だった。

1日のスケジュールの中に、この時間をとって時間を調整してやるべきことをやったり、やるべきことを放棄したり、本心はなにもしたくない眠りたいだったり、人間が出来てないので大変だった。

ただ、心に留めていたのは、ブログに生活が左右されないようにすることと生活もブログが左右されないようにすることだ。

日記的な内容は最終手段にしたり、ブログを理由に実生活のなにかを断ったり諦めたり利用したりすることが無いように努めた。ブログのflyingspaceshipと、生活の私とで切り分けはしたかった。毎日やっていても、それが出来るかどうかを見たかった。

 

毎日更新のブログをやって良かったことは、友人が応援してくれたり、友人からテーマを投げかけてもらえたりしたことだ。

あと、もうひとつ、実生活と切り分けするために、逆にきちんと1日の中の予定を含めてブログの時間を設けたので、仕事の締め切りがあるものがかなり余裕を持って出来るようになった。ルーチンが追加されたことで、より整頓しやすくなった。ガラガラの本棚より、ある程度量が入った本棚のほうな整理しやすいようなイメージだ。

 

知能テストを過去に受けたことも書いたが、私は考えるのが基本的に苦手だ。だから、人より余計に遠回りしてものを考えて、人より考えることに費やすものの比率が大きい。

文章もどちらかと言えば、そこまで上手では無いかもしれない。

それでも、毎日考えて、吐き出して、の繰り返しの訓練が出来た。

 

なにより自分がたてた目標を達成できたことは誇らしい。

 

今後も苦しみながら、考えたことを文章にしていきます。

 

今後は毎日ではなくなりますが、また見ていただけると嬉しいです。

 

本日も読んでいただき、ありがとうございます。

愛しています。