優しさについて
こんにちは。
こんばんは。
おはようございます。
flyingsapceshipと申します。
こちらでは考えたことについて、私ならではの少ない語彙と拙い文章で書き殴っていくスタイルでお送りしています。
ときどき「なんだかんだ優しいから」とか「優しいだけじゃダメだよ」と指摘を受ける。
私のことだ。
flyingspaceshipは優しいらしい。
確かに、優しさを表に出す方法やどんな時に優しさを発揮すべきかという道徳は義務教育中に習った。
つまりは、基本的には均一な教育の上、多くの人間と同じレベルの優しさを身につけただけだ。
それを、偽善と言う人もいるが、そんなこともできずにどうやって人間社会に溶け込めると思っているのか。
こんなことを友人に話したら
「え?寄生獣なの?」
と言われた。
心の奥底から生まれた優しさでなければ優しさと認めんという人もいれば、私のことを観て「優しい」という人もいる。
しかし、指摘の中の「優しいだけじゃダメだよ」とあるのは、私が生み出した優しさは何事かを『ダメ』にするものらしい。
自分で考えてみると、それは『人間』と『人間関係』であると思う。
私は友人知人恋人、基本的に好きな人間に対して否定の言葉を発しない。
さすがに『歩き煙草をしている人間を全員薙ぎ倒していこう』とか『歩き煙草をしている人間の口に燃え盛る煙草を詰め込んでみないか』などと言っていたら、全否定はしないかもしれないが、行動を改めるようには言う。
もっと効率的な方法を考えよう、と熟考を提案する。
なぜ否定しないことが基本なのかというと、その人本人が考えて、素直に生きてできあがった人間性が好きだからだ。
自分がその人を好きな理由が、その人の自主性や自尊心に依るものなので、否定して制限をかけたら、私の好きなその人ではなくなる。
私の考えで否定してその人のなにかを変えようなどとしたら、それに対して反発する姿や同意する姿はそれぞれあるかもしれないが、私の考えた通りの人間性を相手に着せようとしていることになる。
そんなのつまらない。
生きている人間を相手にしているのに、面白くないのはどうか、と思う。
また、否定しない、とは言っているが、自分の考えをそっくり相手に倣っているというわけではない。
自分はこう考えるしこう感じているが、君は違うんだね、面白いね、それもいいね、どうして違うのかも知りたいな。
ここまで、一見なんの問題もなさそうだし、人間関係に軋轢を及ぼすことがなさそうだ。
ただ、そうやって否定することなく、反論することのない私は、『相手の考えを信用していないから期待していない』姿にも捉えられる可能性があるから『ダメ』なのだ。
私が、「自分と他人は相容れないものだし、相手は私の考えはきっとわかってくれない」と思っているように観られるのだ。
それも確かにそうなのだ。
自分以外の人間は他人だ。
思考回路を細かく共有することは、しっかりと言葉を交わして、矛盾と相違を見つける作業が必要であり、かなり難しいし面倒だ。
この最後の「面倒だ」ということだけが相手に伝わってしまう場合があるから、『優しい』つもりだけでは『ダメ』になるんだと考える。
自分の本心を探る為には、より自分の利益がなんであるかを考えてみる。
この優しさには相手が好きだから、というだけでなく、自分が嫌われたくないから、そういう態勢で人と向かい合っているのかもしれない。
ただ、嫌われていないのは利益だと思う。
嫌われることは損だ。
嫌われていないなら、自分と相手の態度とタイミングさえ合えば、直系の血縁以外ならどんな関係にもなれる。割とポジティブだ。
私の場合、よく知らない他人に話しかけられるのは苦手だし、最悪嫌いになる。
『よく知らない相手によく知りもしないうちにパーソナルスペースに入って来る奴』として嫌う。
でも、ある程度知ってからなら他人でいる段階よりは嫌いじゃない。
また、『私、嫌われてもいいし』と言う人間は大体信用しないようにしてる。
それ自体が自己分析不足だし、その言葉がどう影響するのかも想像しない浅慮さから、平気で嘘をつくだろうな、と私に想像させる。
嫌われないためだけに生きることになったら、よりつまらない人間になるかもしれない。だからといって、好きな人間にそのままの姿でいて欲しい、自分を嫌っていない人間のままでいて欲しいと願うことは、ダメなのだろうか。
ちなみに、私の優しさによって『ダメ人間』になるような人間は気をつけた方がいい。
将来的にDVの加害者が被害者になる確率が高い。
『あなたが私に優しくするから!私はこんなふうになった!』
こっわ。
しかしながら、私の『優しさ』はいずれ正さなくてはならない。
でなければ、相手が私を知れば知るほど、離れたほうがお互いのためでは?と思い始める未来が見えるからだ。
かなしい。
かなしくならないために、いつか自分の好きな相手にも、自分の考えに共感くらいしてくれ、という要求を出さなくてはならないのだろう。
つらい。
考えただけでかなしい。
きっと向いてないのかもしれない。
これを書こうと思ったのは、実写映画の『寄生獣』を観たからだ。
ふつうに楽しめたので、邦画を叩きまくる人は、おそらく映画の観すぎかもしれない。
もっとつまらないものはたくさんある。
エンターテイメントに多くを望みすぎてることに気付いたほうがいい。
ただ私も『進撃の巨人』を観る勇気はまだ無い。
旧作レンタルの100円でさえ惜しいからだ。
本日も読んでいただきありがとうございます。
愛しています。