コミュ障について
こんにちは。
こんばんは。
おはようございます。
flyingsapceshipと申します。
こちらでは考えたことについて、私ならではの少ない語彙と拙い文章で書き殴っていくスタイルでお送りしています。
flyingspaceshipは『自称・コミュ障』だ。
一言目の前に「ぁ」は入るし、レジで店員と目を合わせられないことのほうが多い。
だから、買い物は一度行ったことのある店のほうが安心なので、同じところに何度も行ってしまう。
しかし、そこで常連扱いされるのもいたたまれない。
「いつもありがとうございます!」とか言われると
『やめてくれ!!!!!』
と脳内で叫んでいる。
ほかでもない、よく行くスタバの店員がそのプレイだ。
だが、基本的にほかに行くところが無いので、本心である羞恥心をすべて殺して本来の自分ではない笑顔で応える。
店員としては顔を覚えたら、そのくらいの挨拶は業務として普通だ。
『そっち』がスタンダードで『こちら』が異質なのは、充分理解している。
「洋服屋の接客がうざい」とか「こっちはコミュ障だぞ察しろ」とか、そんな世間知らずのマザー・●ァッカーと同じクソの役にも立たない念仏を唱える気はさらさら無い。
私の『コミュ障』は、相手にこちらに合わせろ、という主義は一切無い。
相手に合わせられない自分を殺す、という主義が前提だ。
そうやって毎度『コミュ障の自分殺し』の異名を自分の中に轟かせているため、『人見知り』は初見で暴かれても『コミュ障』とは思われていない。
めちゃくちゃ喋るからだ。
自分でもびっくりするほど、初見からよく喋る。
大学3年の冬まで友達がいなかったなんて嘘みたいだ。
次の日に全員の名前を忘れてもいいようなクソ飲み会にうってつけとも言える、空っぽの内容を喋りまくることができる。そういう場で、私は忘れていないが。
大学に入ってすぐの大型の飲み会で、色んな同級生と軽く話を交わして、友人関係になったつもりで、翌日そのうちのひとりの女の子に話しかけて
『えー!全っ然わっかんねーんだけどウケる―!』
と学食でデカい声で笑われた。私は忘れていない。
私の『コミュ障』っぷりが最大限に発揮され、白日のもとに晒されるのは、ある程度仲良くなってからだ。
ある程度仲良くなっているからこそ、マイナスに傾く可能性が初見の時よりも大きい。その上、リスクも大きくなっている。
にも関わらず、『コミュ障』のためか知能の問題なのか、タイミングや返事の判断を見誤ることが多い。
大人になって良いことは、そういう姿を確認しても、周りは充分に大人なので寛容な付き合い方をしてくれる、ということだ。
今の身近な友人は学生時代は付き合いがあまりなかったため、お互い『周囲から見たイメージ』がある。それと比べると、今は『こんな人だと思わなかった』という。
非常に寛容な友達で、私は嬉しい。
また、大人になると初見の時は、空っぽな内容以外に話さなくてはならないことがたくさんある。
ひとまずは、『自分が怪しくない』ことを伝えなければいけない。
利害関係ではない、新しい人間関係を作る上でどう距離感を持つか、そこは各々大事なところだと思っている。自分を守れるのが自分だけなのは、お互い様だからだ。
その為、flyingspaceshipの『コミュ障』は決して「人と関わりたくない」ことが源流のものではない。
「得たと思った人間関係を失うのが怖い」ことが源流なのだ。
モノに関してもそうだ。
失くしやすいビニール傘は買ったことが無いし、一度盗まれたことがある自転車はもう手に入れる気になれない。
失った時の精神的ストレスに耐えられないからだ。
『コミュ障』にも色々な種類がある。
「かたちあるものはいずれ壊れる」などという老害の言葉もあるが、壊れた姿なんて見たくないんだ。
本日も読んでいただき、ありがとうございます。
愛しています。