本性について
こんにちは。
こんばんは。
おはようございます。
flyingsapceshipと申します。
こちらでは好きなもの、きらいなもの、気になるもの、考えたことについて、私ならではの少ない語彙と拙い文章で書き殴っていくスタイルでお送りしています。
見ているだろうか?『本性』。
というか、『本性』とはなにものなのだろう。
ほんしょう【本性】…
1.
本来(生まれついて)持っている性質。 「化物の―を現す」
2.
正気(しょうき)。 「酒を飲んでも―を失わない」ほんせい【本性】…
本来の性質。そのものとして欠くことのできない性質。
言葉の意味としては、その人の飾らない姿、昔から変わらない、素直な状態なのではないかと考える。
しかし、この『いよいよ本性を現した』などと人が人に言う時は、以下の状況が多い。
・非常に怒っている姿
・憤りにより暴言が漏れたとき
・捻れたフェチ性が暴かれたとき
・打算的思考が他人により露呈したとき
などなど。
その当人にとっては都合が悪い姿を晒してしまったときだ。
私は常々ヘラヘラ過ごして、平和的で争いを避ける弱者側だが、嫌な目に遭ったり、誰かに傷付けられることがあれば、それなりに口汚い暴言を吐くくらいはする。
そんな時間は総じて1週間に2日とか3日くらいだ。50%にも満たないか、50%くらいだ。
サイコパス友人の歌で有名なMr.Childrenでさえも、『良いこと49、嫌なこと51』と歌うくらいだ。
Mr.Childrenがそうなのだから、ただ埋もれる日々を過ごす私は70%くらい嫌なことがあってもおかしくないが、発狂せずに生きるため、必死に食べ物や漫画や映画、友達との交流でカバーしている。
そんな日々の49%を守るために、51%について発散する機会がなければ、自我を持って早々に手首にダサいブラインド模様ができている。
その51%を発散するための、日々の半分にも満たない時間だけを取り上げて、『本性』というのか?
例えば、他人に優しくできる人の優しさは、もしかしたら『発散』によって成り立っているかもしれないのに。
『あの人は怒ったら怖い』とか言うのも同じだと思う。
怒ってるんだから怖くないわけがないし、怒らせて怖くならない人なんていない。
逆に、怒りを作動させておいて、「あの人は怒っても怖くないな」と確認するようなことがあるのだろうか。
だから反町がほぼ封印しているにも関わらず、相変わらずこの世はポイズンなのだ。
偶々表出した『悪いところ』を取り上げて、『本性』呼ばわりする奴は、それこそがそいつの卑しさであり、それが『本性』と言われても仕方ないことになる。
日々精神の鍛錬を積み重ねている人の『良いところ』が、『本性』と認めれば、その人の怒りや憤りに対して、他人も謙虚に受け取れるはずだ。
ひとつの人間を形成するには、常に『良いところ』『悪いところ』があってこその、その人だ。
それも、見る側、関わる側の主観でしか無い。
他人の見る目の数だけ、その人の要素が多面化するのだ。
他人のなにを信じるかは自分自身を映す鏡でもある。
相手の悪いところばかり信じる自分は、同じような悪いところがあるし、自覚しながらも目を逸らしているだけだ。
人の良いところを信じようとすれば、良いところは見習うことができる。
最近では、『Twitterの呟きを本性』という見方をする人もいる。
どう見るかは自由ではある。
ただ、見る側のそれを鋳型にして、勝手に嵌め込もうとするのは、見られる側の手足を捥いで水責めするくらいの非道さを感じる。傲慢だ。
『本性』をネガティブワードにしているのは、ポイズンだけではない。
他人の他人に対する傲慢さから発現しているのだと、時々思い返してもらえると嬉しい。
本日も読んでいただき、ありがとうございます。
愛しています。