宇宙船と砂漠で足跡

こんにちは。 こんばんは。 おはようございます。 flyingsapceshipと申します。 こちらのはてなブログでは好きなもの、きらいなもの、気になるもの、考えたことがあれば、私ならではの少ない語彙と拙い文章による書置きスタイルでお送りしようと考えています。

【前編】スカートについて

こんにちは。

こんばんは。

おはようございます。

flyingsapceshipと申します。

こちらでは好きなもの、きらいなもの、気になるもの、考えたことがあれば、私ならではの少ない語彙と拙い文章で書き殴っていくスタイルでお送りしています。

 

『スカート』について考えていたら、自分の生きてる中で、その評価もイメージも変動が大きかった。

そのため、前後編分けることにした。

 

 

『スカート』は、某解散したアイドルグループの女装ママの人や芸大・服飾系の一部の男性以外は、『基本的に女性が穿くもの』というのが、私の認識だ。

 

幼少から少女漫画ばかり読んでいたためなのか、『女性という像』の理想が高く、それに当てはまらない自分がそれでも女性である事実が、とても居心地が悪かった。

 

そのため、もともとは、スカートはあまり自ら進んで穿くことは少なかった。

小学生ですでに、自分が『女児として分が悪い』ということに気付いていたこともあり、スカートを穿くことに抵抗があった。

むしろ、自らの『女性性』を試されている、自分を辱める服として捉えていて、嫌いでもあった。

 

小学校の卒業式では、我が家にその年頃の子供が着られる礼服はスカートしか用意がなく、とても嫌だった。

ある程度ゴネたりもしたと思うが、他に無い、というのは事実なので、結果、諦めた。

 

中学に上がるとき、制服が与えられ、スカートを穿くことが当たり前になる。

それも嫌だった。

しかし、無理にズボンを穿いたからと言って、『格好が良くなる』ような恵まれた体格をしていないことも了承済みだった。

幼馴染が2人いたが、残酷なことに2人とも成長期にきちんと成長し、160cmを超える血統の良さだった。

羨ましさと妬ましさと諦めでいっぱいだ。

 

それでも、中学は標準服がジャージなのであまり気にならなくなっていた。

それに、中学生の女子というのは、大きな成長の途中ということもあり、色々な気持ちの不安定さや変化から、『スカート嫌い』は結構いた。

みんな嫌々穿いているだけ、ということがわかると、気が楽になった。

 

高校生のころは、『まぁこれが女子高生だからな』くらいの気持ちだった。

当時も『女子高生』というブランドは不動のものだったと思う。

なにより浮くのが嫌だったこともあり、短すぎない程度の膝上プリーツスカートだった。

これはむしろ、動きやすかった。

似合うか似合わないかで言ったら、度々書いて申し訳ないが「髪型は桜木花道」の状態で、お世辞にも似合うとは言えたものではなかったと思う。

 

高校生までは『制服』としてのスカートは承服していた。

学生である時の私は、『没個性ほど正義』を貫いていたことも、理由のひとつだろう。

 

「自分はこう!絶対曲げられない!」みたいな主張をわかりやすくする生徒も、もちろんいたし、とても良いと思っていた。

しかし、割合で考えてみると、そういう人間は、教室という狭い空間に押しこめられた状態であるなら、学年に1割が定員だ。

それがオーバーすると、個性がぶつかり合う中でのカーストが産まれるだろう。一般のそれよりも、残忍な選別がされると予想できる。

 

『制服』というせっかくの『没個性』アイテムがあるのに、それを崩して、わざわざ主張するほどの『スカート嫌い』は自分にはなかった。

 

学校という特殊空間で、制服で私の『没個性』を主張するための、安心材料が『スカート』だったのかもしれない。

 

しかし、当然ながら、10代のうちは私服でスカートはほとんど穿いていない。

自分よりも2回りも3回りも体格の違う姉と妹から、服が『おさがり』で回ってくるため、いつも微妙にサイズの合わない上衣と、イトーヨーカドーで買ってもらったズボンを合わせていた。

母がよく、「スカート穿いてくれたら、わざわざズボン買わずに済むのに」とぼやいていた。

体型が違い過ぎても、スカートなら少しの修繕で着られるようになる。それも、大きいサイズから小さいサイズならなおさらだ。

私はいつも「可愛く産まれてたらそうしてたよ」とやんわりと、産み方と育て方に失敗した母を責めた。

母はそういう嫌味に気付かない感受性の持ち主なので、ただ「面倒なこども」と言ってた。

 

『たかが服』で、ここまで思春期を惑わせるものは、『スカート』くらいじゃないだろうか。

 

ここまで書くと、とある誤解も生まれそうなので、ひとつ主張しておく。

小学生、中学生でも、私は『男の子になりたい』わけではなかった。

一時的に『男の子になりたい』願望もあったが、それは誰でも通るくらいのもので、性別としての認識では、自分がどうあがいても『女の子』であることは受け入れていた。

 

今考えると男児に酷い話だ。

当時小学生の自分の美醜観は、突き詰めると、『女の子としてブスなら男の子になればいい』ということだ。

男児や男性に美しさを感じたことが無かったのだろう。

視野が狭い子供ならではの考え方だ。

 

とはいえ、今でも自分の容姿に自分の価値観があてはまらないのは変わっていない。

しかし、『スカート』に振り回されることはなくなった。

次回は解決編。

 

本日も読んでいただき、ありがとうございます。

愛しています。