答えられていない事について
こんにちは。
こんばんは。
おはようございます。
flyingsapceshipと申します。
こちらでは好きなもの、きらいなもの、気になるもの、考えたことがあれば、私ならではの少ない語彙と拙い文章で書き殴っていくスタイルでお送りしています。
友人や知り合い、顔見知りが増えるのは喜ばしいことだ。
私がTwitterに常駐した上で、外に出ることが増えた為だ。
初対面でもわりかしよく喋るので、コミュ障や人見知りはある程度カバーできるが、実は、ある話題を振られると『…っ!』と一瞬狼狽してしまう。
終いには、必要以上に卑屈な答え方(しかも挙動不審)をしてしまい、『その話題はタブーだったか…?』という変な空気にしてしまう。
絵の話だ。
私の唯一のオタクらしさであるが、褒められていようが素朴な感想であろうが、人からのリアクションへの応え方がまったく慣れない。
そもそも、絵はずっとかいているが、それについて言及される事が少ない半生を送ってきた。
学校行事で絵をかくことがあっても、『それ』を『私がかいた』と認識されることも少なかった。
中学の時、合唱コンクールの楽譜の表紙の絵をかいた。カブトムシと向日葵とかの絵だったと思う。
それを見た他のクラスの男の子が、誰がかいたのか私に聞いてきたので、素直に答えると、かなり驚いていたこともある。
柔道部は絵がかけないものだと思われていたのかもしれない。
ただ、圧倒的な技術や才能があるわけでも、私自身情熱を持って取り組んでいたわけでも無いので、一部の友人は『絵がかける人』という認識をしていたくらいで、知らない友人もいる。
または、『かける』というだけで『好きで自主的にかいている』とは思っていなかった、という友人も実際いた。
本当にただかいているだけなので、どう答えたらいいのか、答えることに慣れていない。
きちんと技術面や理論を勉強して絵をかいたことも無く、ただひたすら空いた時間に紙に線を引き続けただけだ。
そのためか、必要以上に卑屈になって『金にならない趣味』などと、無駄に俗っぽい言い方をしてしまうこともある。
なんでかいているのか、は本当に運動のようなもので、Twitterにあげるのも記録として残していくような感覚だ。
それをすることで、どこかで承認欲求を満たしているのかもしれないとは思う。
ただ、目的が承認欲求を満たすことでは無いのだろうな、とは思う。
イイネやリツイートなど反応の数値を目的とするなら、話題のもの、2次創作を多くかいたほうが確実だ。
そういうやり方をしてみてもいいかもしれないが、なかなか上がらない数値に疲弊するだけのような気がする。
ただかいたから公開し、見てもらえると嬉しい。反応があると嬉しい。
子供のころあるべきだった、「見て見て」を今やっているのかもしれない。
物心ついたころすでに父母を見限り、期待しなくなっていたため、自分の好きなことをしているときは、それで完結させていた。
今思い出したが、『金にならない』は父に言われていた言葉だ。
そう言われても仕方ないと刷り込まれているから、自分から言ってしまうのかもしれない。
絵についてだけは、褒められたり感想をもらえるのは嬉しいくせに、どう応えたらいいか全然わからない。
『私がかいた絵』とそこにいる私は、完全に他人事のような気持ちになってしまう。
今後もTwitterでは、時々絵をかいたら公開していくと思う。
『お、また幼児返りしているな』
とでも思って貰えれば、いいと思う。
現実は30歳なので、うまく答えられないのだ。
本日も読んでいただき、ありがとうございます。
愛しています。