『いいもの』を見つけたら?
こんにちは。
こんばんは。
おはようございます。
flyingsapceshipと申します。
こちらでは好きなもの、きらいなもの、気になるもの、考えたことがあれば、私ならではの少ない語彙と拙い文章で書き殴っていくスタイルでお送りしています。
私は誇り高き公式厨だ。
私の狭い交友関係では、なにかしらのオタクが多く、公式厨であることが誇りとなる認識だ。
ただ、私は今なんのオタクか、といわれるとはっきりとコレ、といえるものがない。
ここまでブログを読んでくれた慈愛に満ちた方は「JOHNNYPARKは?」と言うかもしれないが、彼らの推奨するアニメやアニメソングを全然追えていないし、その時間を犠牲にしてこういう文章を書く時間を優先しているので、オタクとは言えない。というか、言ってしまえば崇拝まではしてないし。
それに、『コンテンツ』ではなく人間である彼らのオタクを名乗ったら最後、彼らがストーカー被害に遭ったとき真っ先に容疑者になりえてしまうのでそれは絶対に避けるべきだと思う。
早口でまた言い訳めいたことを書いてしまった。
しかし、特定のコンテンツでオタクではないにもかかわらず『公式厨』と名乗れる理由とは何か。
世の中には、とある『モノ』が突如ピックアップされ、売れる、有名になる、という流れがある。
例えば、鍋の『ル・クルーゼ』だったり、靴の『レペット』だったり、お菓子の『六花亭バターサンド』だったり、トースターの『バルミューダ』だったり、色々な『モノ』がある。私が疎いジャンルもたくさんあるだろうから、例が貧困で申し訳ない。
最近目に付いたものでは、赤祖父さんがはてなブログで紹介していた『バターバトラーのフィナンシェ』だ。
一度売れる、またはピックアップされていくと、それがブランド価値と認識される。
そこから浸透すると、出てくる言葉が「もっと安くて、それと似たようなモノ無いかな」だ。
私は、これが、苦手だ。
決して、頭から否定はしないし、私の日本社会の納税者ランキングでは下から数えたほうが早い立場から見たら、そう言う方がお似合いだろ、となる。
いや、ただ、所得の関係だけでなく、良いモノを求めるひとはやはり多いのは間違いがない。モノが飽和状態の現の世では、求めるひとは吟味するものだ。それ自体は間違いではない。
また早口で言い訳している。
ただ、『そのブランドによる価格だろうから』という前提思考は、そのブランドの価値が上がるまでの過程を全否定しているし、それに関わった人の仕事を『ブランドの宣伝によるプラシーボでだけ利益を得る方法を編み出した』と思っているように見えて、悲しい。
ブランドが確立されるまでにしっかりと良いものの始まりを作ったために、浸透し、需要が高まり、似たモノも作られるようになったのだ。
「それと似ててもっと安くていいものがある」という言い方がひっかかるのだ。
ただ、それだけなのだが、なんか悲しくなるのだ。
できれば「Aはこういうこだわりがあって良いものだし、BはBでこういう良いところがある」と考えて欲しい。
「ル・クルーゼは美味しく無水調理ができるし、ティファールは汎用性が高い」とか。
公式厨の話から遠くなってしまったが、決して粗悪でない類似品が出回るようになった良い世の中なのだから、そもそもの良いモノを名前だけで判断して欲しくないのだ。
公式厨としては、AのブランドもBのブランドもそれぞれ違うものとして、公式扱いしていくのだ。
決してその似たようなもので安く手に入れてその場をしのごうとは思わない。
あたりまえに個人のブログなので、これは私の価値観であるが、『ブランディング』は、きっとシステムであれルールであれ、人の仕事の結果で1番達成感もよろこびも高いモノだと思うからだ。
できたら、その1番のモノに価値を置いて、手にしてみたいものではある。
例えばもし私が、ブランドバッグが好きな女性であったならば、いくら似たようなモノがあっても(バッグって本当にどこにでもあると実際思っている)、本当に欲しいモノのために働いてお金を得た!と思ったほうが嬉しい。
間に合わせの特別欲しくない『似たような』モノの為に必死に働いて、自己欺瞞をするようなことはしたくない。
自己満足くらい、満足させてやりたい。
本日も読んでいただき、ありがとうございます。
愛しています。