母は私だったことがないのだろうか
こんにちは。
こんばんは。
おはようございます。
flyingsapceshipと申します。
こちらでは好きなもの、きらいなもの、気になるもの、考えたことがあれば、私ならではの少ない語彙と拙い文章で書き殴っていくスタイルでお送りしています。
近所のアーケード街ぽいところを歩いていると、なぜかご婦人たちは割としっかりとした声で身の周りの他愛ないトピックスを話している。
そのため、ふとした他人事が耳に入って気になってしまうことが多々ある。
先日、変わらず私はザクザクと人波をかき分け、いつものアーケード下を歩いていると、数メートル先から2人組の、40代くらいの主婦が歩いてくる。
そのひとりの発した台詞が、私に残っている。
「下着は上下揃えてくれって!
もう〜、イヤになっちゃうわ〜!色気付いちゃって!!」
はっきりとした声で、他愛のないことのように、笑顔で話していた。
普通に考えて、10代の女の子の母親なのだろうか。
私は勝手に、ひっそりと傷付いた。
下着の上下を揃えることは、見知らぬあの人にとっては『色気付いている』ということなのだ。
動カ五(四)]
1 異性に関心をもちはじめる。性に目覚める。「息子もそろそろ―・いてきた」
2 花や果物などが色づいてくる。「ミカンが―・く」
下着の上下を揃えることが、その基準なのかどうかはさておき、母親から『色気付いた』と見られた(言われた)と察した娘は、どう感じるのか。
傷付くのだ。
また、『ちゃって』という言い方から、してはいけないことをした、と言われているようにしか受け止められない。
同性からその性を否定されるような、そんな気持ちになる。
無意識のうちの自意識の変化に対して、同性だからという信頼がわずかでもある相手に、受け止めてもらえず、あまつさえ簡単に揶揄されるのだ。
『色気付いて』と言われた行動や考えは、してはいけないこと、悪いことと捉えてしまうのではないか。
母親であり、同性の家族に、女の子供は好かれたい、認められたいと思うのが当然ではないだろうか。自分がどんな姿に成長したら、認めてもらえるのだろうか、と、どこか迷走しながら思春期を過ごすと思う。
傷付いて、母親に頼れなくなったり、反発したりしていくのではないだろうか。
私の母も無神経であったが、今時分、情報が溢れているなかでの『母親』も、そんな価値観で子供の成長を見ているのか、と悲しかった。
なぜ、子供を自分の子供としてだけでなく、ひとりの成長途中の人間として、過去の自分の姿として、相手の思いを想像することをしないのだろうか。
母親は、自分がだれかの子供だった時のことを、思い出すことはないのだろうか。
母親になった途端、『母親』からの自意識しか持たなくなってしまうのだろうか。
前述したように、私の母は漏れなく無神経だったので、『では男の子のように過ごした方がいいのだろうか』という無意識のもと、17歳過ぎまで女性下着店に足を踏み入れることが出来なかった。
今では、そういうのも、虐待と呼ぶのかもしれない。
でも、母も娘も、誰もそんなつもりは無いのだ。だからこそ、『家族だから』という中途半端な呪いは、傷付いた側、傷付けた側、どちらもお互いを醜く庇うのだ。
私は、家族が嫌いなわけではない。
ただ、自分と切り離して想像する努力をどこかで放棄しがちな、注意の必要な名前だと思っている。
本日も読んでいただき、ありがとうございます。
愛しています。