なにかのためについて
こんにちは。
こんばんは。
おはようございます。
flyingsapceshipと申します。
こちらでは好きなもの、きらいなもの、気になるもの、考えたことがあれば、私ならではの少ない語彙と拙い文章で書き殴っていくスタイルでお送りしています。
友人の1人が最近、ブログを始めた。
もともと賢く、学生時代文章で評価された実績があるので、とても読みやすいし比喩も面白い。ポップな文体の方が、大事なことが伝わる。
その中の文章に
何のために生きているか。それは子孫を残すためだと、私はわりと真面目に思っている。生まれたのにいずれ死ぬというのは、子孫を残すことで生物が進化するためだと考えているからだ。
タイトルを付けないことにした。別に... by 草野ユカリ | エッセイ投稿サービスShortNote(ショートノート)
とあった。
すごい、と思った。
同じ歳で、同じ学校に通っていた人が、なんのために生きるか、の考えをしっかり持っていることに驚いた。
なんのために、なんて、正直考えたことがない。
私はいつも卑屈で、「生まれたくて生まれたんじゃない」と拗ねているという、浅薄なアダルトチルドレンだからかもしれない。
生まれたのにいずれ死ぬ、という流れがあるので、ある意味で死ぬために生きてい(るつもりがあっ)たこともある。
生まれる、ということ自体が試験的、実験的だ。『出産』とは前向きな言葉で、実は産まれないこともある、というのが現実だ。これを実際言葉にすると、不謹慎で空気の読めない奴扱いされるけれども。
生まれるときに死ぬかもしれない、という点が私にそう感じさせる。
生まれてしばらくしても、ずっと博打に近い選択を迫られながら、幾つもの昼と夜を越えていく。その昼が、陽の光が注がれるものなのか、その夜が、安心して眠れるものになるかは関係なく、越えた先に目指すのは、皆平等に死なのだ。
面白いな、と思う。
ただ、『このためだけに生きている』と一点集中はしないほうがいい、とは常々考えている。
生きている幾つもの昼と夜の中の博打の分岐で、あっけなく簡単に、それが奪われたり、無くなってしまうことは、かなりよくある。
自分が生きている時間の途中で無くなってしまうようなものに、生きる時間のすべてをかけることは不可能だ。また、分岐や博打の選択肢を狭めてしまうのは勿体ない。取捨選択の能力は、非常に効率的で良いとは思うが、長い時間の中で、状況に合わせて自分を自由に変えられないのは、私だったら飽きる。
真面目に、変わらずコレと言えるものがあるわけではなく、私の顔の通りボンヤリと『なんのために生きるかわからないまま死ぬんだろうな』と思っていた。
昔、ある友人は「祖母が言ってたんだけど、「あ、死ぬな」って時に、なんのために生きてきたのかわかるんじゃないかってさ」と言っていた。
死ぬその瞬間に悟りを開く、というのは確かに仏教ぽくていいなとは思う。
ただ、そう考えるときふと思うのは、11歳で死んだ友人は自分が死ぬとき死ぬと自覚できただろうか、ということだ。きっとわけもわからないまま、死ぬことや人生の目的なんて考える時間なんて少しもなくその時になってしまったのではないだろうか。見ていることしかできなかった私でさえ、『しぬ』とは少しも頭を過ぎらないまますべてが過ぎ去った。
さすがにもう30歳になったので、なにかのために生きていると、はっきりと宣言できたほうが格好いい。
しかし、自己犠牲の精神の解釈を拗らせたflyingsapceshipは、『ために』というと、自分が生きるだけでその何某かの『ために成る』ほどのなにかを生み出せるのだろうか、という懸念が生まれてガタガタ震える。
たぶん、顔と一緒でボンヤリと『なんのために生きてるんだろうなぁ』とずっと考えながら、来たるべき死に積極的ではなく、受動的な感じで流されていくほうが性に合っているだろう。顔は人生を表すとも言うらしいし。
本日も読んでいただき、ありがとうございます。
愛しています。