需要と供給について
こんにちは。
こんばんは。
おはようございます。
flyingsapceshipと申します。
こちらでは好きなもの、きらいなもの、気になるもの、考えたことがあれば、私ならではの少ない語彙と拙い文章で書き殴っていくスタイルでお送りしています。
前回の内容を読み返して、言い訳をしなければいけないことに気付いた。
人類のことや子孫のことをテーマに書いたからではあるが、私は恋愛対象に対してすぐにその目的を持つわけではない。
もしそうだったのなら、挨拶しかしていない同級生のためにガリ勉になるわけがない。(※勉強の理由 - 宇宙船と砂漠で足跡)
矛盾しているとはつくづく思うのだが、私は恋愛感情の序盤が『性的な目で見ていることへの罪悪感』なのだ。
漫画や小説で時々、中学生くらいの男の子の描写である。
ただ、実際には性的な目で見てはいない。すぐそんなことまで想像できるほど、私の妄想力は発達していない。
それでも、そういう罪悪感を持つのは、どこかでその人を他の人と区別しているという事実に気付くからだ。
それは悪いことではないのは知っているし、私以外の人がやっていてもなんとも思わない。でも、自分事になるとその事実が罪悪感をもたらす。
ところで、若い女性でも
「結婚はわからないけど、子供は欲しい」
という人がよくいると体感している。
大学生の女の子が言っていたこともあった。その時はリアルに飲んでいた烏龍茶を吹き出した。
結婚のことは考えてないのに、環境が整っているかどうかもわからない条件下で、自分の遺伝子をもった弱い生命体と満足に生活できるのか、その不安の方が大きくないか?と思った。
私はそのくらい、まずは事実として条件が揃っていない状態では、人類とか子孫以前に、自分の子供が欲しいとは安易に思えないのだ。
モテない奴向けの自己啓発本かなんかでは、「本能でこの人の子供が欲しい!と思える人がいる」とかナントカ書いてあった。
女怖すぎるだろ、と思った。
子供が欲しい!という願望を持って距離を詰められた相手のことを考えているのだろうか。
これ男女逆の理論だったら、本になっちゃいけないんじゃないか?と思った。
今、気付いたのだが、私は需要と供給が確保されていない以上、恋愛感情というものは下手をすれば、加害と被害になると思っている節があるのだ。
それで拗れた人間関係を横目に、10代20代を過ぎた。
なりふり構わなければ、好きな相手なんていくらでも見つけられる。
見つけると、相手がより良い人生を過ごして欲しいと願う。
その結果が「こう」だ。
この目に映る人の幸せは、とある侍も願っていた。
それを創造した人間にはそれがあるのかどうかは別として、それを読んだ人間には植え付けられたということだ。
本日も読んでいただき、ありがとうございます。
愛しています。