宇宙船と砂漠で足跡

こんにちは。 こんばんは。 おはようございます。 flyingsapceshipと申します。 こちらのはてなブログでは好きなもの、きらいなもの、気になるもの、考えたことがあれば、私ならではの少ない語彙と拙い文章による書置きスタイルでお送りしようと考えています。

幸せになれそうな人

こんにちは。

こんばんは。

おはようございます。

flyingsapceshipと申します。

こちらでは好きなもの、きらいなもの、気になるもの、考えたことがあれば、私ならではの少ない語彙と拙い文章による書置きスタイルでお送りしています。

 

一緒にいて自分が幸せになれそうな人を日々、自己判断で選べているんだろうなと思う。

友達も恋人も。

 

それが当たり前にわかるってすごい判断能力だと思う。

 

『幸せ』の判断基準は人それぞれでも、他人と時間が合わさった時、「自分が『幸せ』に成れるだろう」とほんのり察知できるのは、自分がどんな時に幸せを感じられるか、理解していないと難しい。

 

一般論で私が知っている、人が比較的幸せに感じられるケースというのは、『選ぶ自由があるとき』だ。

「選ぶ自由」は「幸せに感じること」なのだ。選べない不自由さはとても窮屈で、苦しいらしい。

 

しかし、誰かと同じ空間に同じ時間軸で共に生きていて、その誰かだからこその『幸せ』を、『予想できる幸せ』はきっと「選択の自由」ではないだろう。

よくある、『お風呂にする?ご飯にする?それとも?』が誰かと一緒にいるこその選択の自由の象徴だとでも言うのだろうか。

 

友人が私に、優しさからアドバイスしたのだ。

『(flyingspaceshipが)幸せになれそうな人を恋人候補に選ぶべき』という。

 

ただ、私は自分がどんな時に幸せを感じるか、いまいち把握していないのだ。

今だって、取り立てて「幸せです」とは言わないが、不幸ではないし、そんなアドバイスをしてくれる友達もいて、仕事もやり甲斐があり楽しくて、雨風をしのげる屋根のある気に入った『ハウス』が自分の帰る場所で、幸せなのかもしれないと思う。

その幸せは、ひとつの線ではなく点でできている。生活の総合的要素で出来上がっているのだ。

 

だから、特別な誰かがもたらすことを期待する幸せがわからない。

だから、暴力さえ振るわなければ、という条件しかあげようがないし、それに対して私はその人に見合った条件があるか、という、『人のふり見て我がふり直せ』の誤用思想に取り憑かれて、また脳の隅で苦悩する。

 

幸せ、と問われて、そんな単語ばかり考えていると、卑しい宗教めいたものにつけ込まれそうだ。

30歳の女は、すぴりちゅある、などとただカタカナになった空虚にすぐ騙されるから気を付けなければいけない。

 

誰かがもたらす幸せはわからないから、とりあえず『面白そうだな』と思った人に好意を寄せてしまう。

面白かったらたぶん楽しいこともありそうだからだ。

 

 

そうして、ここまで来た。

友達に恵まれている。

その友達は、みんな黙って恋人を作り結婚していった。

私のわからない幸せが見えているし、理解しているのだろう。

そのうち、いつの日か、同じ景色が見えたらいいなとは思う。その時、楽しければいいだろうなとも思う。

 

本日も読んでいただき、ありがとうございます。

愛しています。