理解と諦め
こんにちは。
こんばんは。
おはようございます。
flyingsapceshipと申します。
こちらでは好きなもの、きらいなもの、気になるもの、考えたことがあれば、私ならではの少ない語彙と拙い文章による書置きスタイルでお送りしています。
『自分「だけ」損をすることを許さないひと』もいる。
ネット上ではよく目にする。声がデケェからだ。
例えば、『○○でこんな対応された!おかしいですよね!?』に対して『それはおかしい』『○○に言うべき』『問い合わせはココ』というリプライが返る。このブログではおなじみだが、世界観はTwitterだ。
発信者も、リプライした側も、『自分だけ損したくない派』だと思う。
皮肉ゼロの気持ちで、随分と元気があるな、と思う。
私は『自分だけ損をすることもよくある』と思っている。
そしてそれを、『理解力』だと思ってもいる。
中学1年生の時だった。
所属していた部活動の部室を、ひとつ上の学年の頭と育ちの悪い男子生徒の数人に占領された。
はじめのころは、部室の1/3の面積にあたる隅で部活動の練習をしていた。うすらバカの集団が喚く中、ただ黙々と練習していた。まるでこっちが部室を借りているかのような状況に、中学生の私は日が経つに連れて苛立ちから殺意に変わっていた。
そんなわけで「うるさい」と「出て行け」のコミュニケーションの果てに、うすらバカどもに部室を占領された。
教師には「お前が悪い」「諦めろ」と、こちら側がその状況を飲み込むように、まるで正論を振りかざすようなマジトーンで言われた。
同じ部員にも、一瞬やや白い目で見られた。それは、その後すぐに隣の学校で活動することになって、和解に至ったが。
その時ほど、『善い』『悪い』ではなく、自分だけが損をすることがよくある、と知った。そのころは、じゃあ馬鹿は全員死ね、と思っていた。
ただ、誰に何を言っても、自分の損は損のままのことの方が多い。誰かに何かを言って、逆に得をするような出来事は所詮子供も通じるようなクソ事象でしかない。
マジトーンの時は、誰に何を言っても、その労力が塵と成り果てるだけで、自分が更に体力的に損をするだけなのだ。
なぜならこの世は『言いたいことも言えない』からだ。
手に負えない他人の損は『大人になれ』という言葉で、損をしたと主張した側を握りつぶす。
『大人になる』というのは、諦めろ、と助けを乞う人間に言い放つことなのだ。
したがって、私は自分が損をしたらそういう業だと思うと共に、酷い目に遭ったら他人の助けよりも、自分があとでなにも出来なかったことで悔いを残さないようにしている。
相当な酷い目に遭わない限り、助けてもらえないとも思っている。それなら、ちょっとの酷い目のうちに、その元凶にも酷い思いをさせてやりたい。
WIN-WINならぬ、LOSE-LOSEだ。
大人になって、諦めることもできるようになったからこその知恵だ。
本日も読んでいただき、ありがとうございます。
愛しています。