若おかみは小学生!について
こんにちは。
こんばんは。
おはようございます。
flyingsapceshipと申します。
こちらでは好きなもの、きらいなもの、気になるもの、考えたことがあれば、私ならではの少ない語彙と拙い文章による書置きスタイルでお送りしています。
『若おかみは小学生!』というアニメ映画を観た。
相変わらずきっかけはtwitterであるのだが、作品自体は青い鳥文庫で2013年から刊行されているものなので、さすがの私もタイトルだけは知っていた。
タイトルから概要の予想はついてしまう作品ではある。
一般的な「子供」の概念にそぐわない役割が提示されるものは、「トラウマ」となるバックグラウンドを勝手に想像させる。
そういった作品は、今までもいくつかあった。そのために、ひねくれ者のflyingspaceshipは原作にもアニメにも一切触れてこなかった。『ママは小学4年生』があるだろ、と。
子供をクローズアップする作品には、『親』という閉鎖空間で生まれる大人の役割と、それにどう子供が係るか、それを繊細に、丁寧に扱う必要があると思う。
読者、視聴者にとっては、第3者として、他者の家庭に土足に踏み込む側にもなり、共感すればするほど、自分の家に製作者の意図が土足で踏み込んでくるような気持にもなり得るからだ。
子供に『子供にそぐわない役割』を背負わせるからには、『それ相応の事情』を組み込まなければいけない。
しかし、映画作品としては、その繊細さと脆弱さを踏みにじらないフィクションもなければいけない。
この作品は、それらが全部違和感なく遂行されて、映画というエンターテイメントとして完成されていたと思う。
色々拾わないといけないところがあると思うのだが、全部回収なんてできないし、なにが1番残ったかは、本当に、ひとりひとり違うものだと思う。
ただ、必ずなにか残していってくれる作品ではあるだろう。
とにかく、創りが丁寧だった。
映画としての創りだけでなく、私は、この作品の観るひとに向けた心理描写と暗喩的表現が印象的だった。
矛盾や破綻があるかないかという単純な構造ではなく、多層的な造り込みが、観るひとそれぞれの発見が観た人の数だけ発生させるのだと思う。
勢いだけでない、丁寧な作りのエンターテイメント作品が好きな人には特におすすめだ。
ここから以下ネタバレの感想です。
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①おっこの中に狂気がある
主人公・関織子(おっこ)は小学生で、痛ましい事故の被害者であり、被害者家族、家族の唯一の生存者となった。
周囲からしたら、もう『普通の子供』ではない。
突然の両親の存在の喪失から、子供の状況は、猛スピードで変化する。
実際の置かれている状況の変化に対応しなければならず、両親の喪失を『死』として受け入れる時間や心の余裕は無いのだ。
だから、両親と暮らした家から出て行く時は『いってきます』なのだ。
「ここにもう戻ることがない」と整理するだけの気持ちの時間はなく、体感ではきっと一瞬前まで両親の布団の中だったのではないだろうか。
物語の節々で現れる、おっこの見る両親の姿は幽霊ではなく、喪失の事実をおっこの脳が整理できていないが故の脳から発せられた安全装置なのだ。
感想や考察を色々と見てみて、多くの人が、悲痛なテーマを悪人や狂気のない物語の優しさが救済したと表していた。
悪人はいなかった。それは逆に、だれかが言えば、誰もが悪人になりうる現実世界でも言える。
しかし、狂気は確実におっこの中にあったと思う。脳が見せた両親と死という事実を理解しながら体感しない、この狂気がなければ、おっこは変化した環境で頑張れなかったのではないかと思う。
この狂気の取り扱いがあったから、私は、大人が想像する「大人が子供に期待するトラウマ」ではなく、きちんと子供を尊重したトラウマが描かれているところに感動した。
ただ、そのぶん、両親でなくても、少しの人間関係でも直近で『死』があった子供はこの映画を見ない方がいいとも思った。まぁ見ないだろうが。
②幽霊と虫の取り扱い方
前述で、死んだ両親の像は、おっこの脳が見せた幻覚だとする。実際、周りの音や画面の切り替えがそう示唆していると私は感じたのだが。
両親は今まで触れ合ってきた『当たり前』で、おっこが春の屋で出会った幽霊や山の生き物(主に虫)は今まで触れ合ってこなかった『当たり前』だ。
それらと同時期に過ごすおっこには、狂気があったのだ。自分を自分で救うためのものだ。
しかし、次第に虫と幽霊への対応が変わる。
虫は実際の環境、幽霊はおっこの逃避先を暗喩しているように思った。
両親の死を自分の脳が受け入れたら、逃避先は要らない。
過去が両親、変遷まで過程が幽霊、これからの未来が虫。
これらをきちんと分別できるまでを、成長というのだろうか。
これらの要素、すべてがアニメーションとして、すべて別々に、しかし美しく、おっこのリアルを描いていたのが素晴らしかった。
成長しました!というあからさまな表現ではなく、こういった示唆する要素を、さりげなく美しく添える、それは料理の盛り付けのようだと思った。
あくまで、私個人の感じ方とうがった見方かもしれないが、要素が美しく、多層的見方も無理がなかった。
すべて丁寧に作られたからだ。
想像も、丁寧であれば、共感を造るリアルになる。
2回目を観終わったとき、トイレに寄ったら、私と同じスクリーンを観て涙したであろう20歳前後の若い女性2人が言っていた。
「やっぱ世代だからねーうちら」
「もうわかりみしかないー、わかんないのにわかりみ」
「ほんとそれな」
まさかその2人ともが痛ましい交通事故で両親を喪ったようにはとても見えないので、そういうことなのだろう。画面と同じく涙するということは、彼女らの言葉を借りれば「わかりみ」なのだ。
もちろん私も、やはり物理的に泣いたが、それはたぶん「わかりみ」ではない。断じて「わかりみ」ではない。
じゃなかったらこんな2500字も書いていない。
わかりみ?
本日も読んでいただき、ありがとうございます。
愛しています。