痛みより喜びを
こんにちは。
こんばんは。
おはようございます。
flyingsapceshipと申します。
こちらでは好きなもの、きらいなもの、気になるもの、考えたことがあれば、私ならではの少ない語彙と拙い文章による書置きスタイルでお送りしています。
『サービス精神』というと、なんだかブラック企業にいいように使われてそうなイメージに変えられる恐れがある。このご時世の悪いところだ。
社会人生活はブラック企業から始まりすっかり社畜となった私だが、サービス精神は、『自分がされたら嬉しいことを人にすること』だと思う。
人それぞれのことを考えて、人それぞれに合った嬉しいことをしようとするのはかなり高度だと思う。ぴったり合う事の方が少ない。
どんなにトンチンカンでも、本当に『喜ぶと思って』されたことは、相手も、よほどサイコパスな事象でない限り、少しくらいは嬉しいのではないだろうか。
『人の痛みがわかる人』が優しさだという風潮もある。
しかし、痛みがわかるからこそ、効果的に相手を痛めつける奴もいるのだ。
ここ最近は、そういう奴が目立ってきた気もする。
20年くらい前だろうか。私が中学生になったばかりの頃の新聞やニュースで、『親に甘やかされた子は人の痛みがわからない』『痛みがわからないので、相手に手加減なく攻撃する』という話を見聞きした覚えがある。
その『甘やかされた子』というのは、暗に、当時徐々に増えていた『小・中学受験の為に某塾に通う子供』も含んでいた。某塾に通う子供は所謂エリート意識からなのか、当時公共の場でのマナーの悪さは有名だった。
なぜそんなことになって、今どうなっているのかはわからない。
私が中学生の頃はそのような話題が目立ち、さらに高校生の頃には『やはり子供には勉強だけでなく、人の痛みがわからないといけない』みたいな飛躍した話も出てきた。
勉強から痛みの話になったつながりがよくわからないが、未成年による凄惨な事件はよく目立ち、取り上げられた頃だったので、人が人に傷つけられる事に敏感だったのだ。
あの頃は、私が見る事件のソースはテレビが全てで、ネットは、流言飛語と妄想と狂気の分別がつかない場所、というイメージだった。
あの頃は、悪そうな若者はみんなバタフライナイフを持っているという目で見られた。
事件と情報と教育が、全部綯い交ぜになって爆散しかけた時代が、『ゆとり教育導入期』だと、私は思っている。
誰も、人がどうしたら『まともに育つ』のかなんて、わからないのだ。
そして今、私の友人は続々と、そのどうしたら『まともに育つ』か具体的に解明されていない生き物を、懸命に育てる『親』になっている。
親でない私が声を大にしては言えないが、いつも思うのは、人間の中に暴力性はある、ということだ。
どこかで、どんな形で発散されるのか、じっとその機会を待つ暴力性は、必ず在る。眠れる獅子は、誰にも、その本人にも解らないところに在る。と、信じていいと思う。
痛みを知って他者を思おうとしたら、相手にも同じ痛みを思い知らせたい気持ちになる、そういう暴力性もある。
優しさは、痛みや悲しみなどの不幸からではなく、喜びとか楽しみのエンターテイメントから得るべきだ。優しくなる為に、妄想でも、被害者を作るべきではない。
親でない私は声を大にしては言えないが、サービス精神の正しい使い方を人はお互いに伝え合うと、きっと楽しいんじゃないかと思う。
本日も読んでいただき、ありがとうございます。
愛しています。