全体を把握してると楽しい
こんにちは。
こんばんは。
おはようございます。
flyingsapceshipと申します。
こちらでは好きなもの、きらいなもの、気になるもの、考えたことがあれば、私ならではの少ない語彙と拙い文章による書置きスタイルでお送りしています。
11月に入って、気温差なのか花粉なのか、家から出た途端にハードコンタクトがずれるくらい涙が大量に流れることがあった。
涙の量が異常なのか、メイクがかなり落ちてしまい、朝の支度が意味をなさなくなってしまう。
仕事上と、私の顔面の作りからして、化粧が薄いのはあまりよくないので、コンタクトは仕事場についてからつけるようにした。
そういえば、顔面の作りが美しく、外国人風な顔立ちの同僚がいたのだが、私が朝寝坊しても「メイクだけはいつも通り(の仕上がりになるよう)やっていく、顔が死ぬから」という話をしたら、彼女はそういう時はメイクはしないと言っていた。「その日は、そういう顔の人、としてやっていきます!」とニコッとされた。お前はいいだろうよ、と燃えるような嫉妬ではなく、ジメジメとした嫉妬で薄暗い気持ちになった。
仕事場でようやくコンタクトをつけるので、朝の顔の支度のあいだは裸眼だ。鏡に鼻がつくくらい近距離でなければ見えないので、その距離で作業部分のみをズームアップしながら進めていく。
パーツから先に絵を仕上げていくような不透明さがあって、工夫をするとか、色を選ぶとか、そういう余裕が無くなってきた。
全体のバランスが在ってこその、作る楽しさだ。
久しぶりにコンタクトをしてからスキンケアからメイクを施した。
やはり、1工程ごとに、一度鏡と距離を置き、そこから細かい修正を入れる。そのほうが楽しかった。
このバランスならここに色を、線を、面積を、ここは修正、と考えながら進める。
全体を把握して行うと、ルーチンだけにならず、楽しいクリエイティブな作業だ。
ただ、それも下地となる自分の肌と顔あっての話だ。
修正部分の多い顔だが、それはやりがいがある。
しかし、肌はいつも同じコンディションではないが、出来る限り良い状態がこの先何年も続くように手入れをしなければいけない。
家に庭があったとしたら、それの手入れみたいなものだ。
化粧の工程を楽しめるようにするために、地道な手入れは続く。
これはきっと、万人には理解されない。
でも、これが私の家の庭なのだ。
大通りに面した、割と広い庭。
芝刈りだけではなく、花や植物もささやかながら植える。植えたからには、それらの手入れも必要だ。
人目が気にならないなら、荒れ放題の庭でもいいかもしれないが、私の庭に面した大通りは、知り合いも多く通るし、その知り合いは庭が荒れてたら心配するだろう。
なるほど。となりの芝生が青く見えることも当然あるな。
本日も読んでいただき、ありがとうございます。
愛しています。