伝えたいことは少数精鋭の言葉たちに
こんにちは。
こんばんは。
おはようございます。
flyingsapceshipと申します。
こちらでは好きなもの、きらいなもの、気になるもの、考えたことがあれば、私ならではの少ない語彙と拙い文章による書置きスタイルでお送りしています。
人になにかを伝えるということが難しい。
私は、人には基本的になにも伝わらないと思っている。
それぞれに自我と欲求と方針が、それぞれの数だけある。
それでも、伝える意欲を示さないと同じ空間に友好的には居られない。
「伝える意欲を示す」。それもコミュニケーション能力のひとつだと思う。
実際伝わるかどうかは、論理的な思考力と語彙力と想像力という能力値に頼るところが大きい。
だから、本当にただ伝えなくてはいけないことならば、私は「相手にどうして欲しいか」しか言わないことが多い。
言葉が少ないために伝わらないこともある。伝わらなかったら伝わらなかったで、少ない単語から認識の差を確認する機会になるので、単語を増やして情報をあやふやにするより解決が早いし、今後の意思疎通方法に役立てられると思っている。
ところで、私はコミュニケーション能力を「伝える意欲」で測っているため、プライベートでは『コミュニケーション能力は低い』と自称している。
伝える意欲はあまり無い。「伝える」というのは、相手の思考の何バイトかの容量を間借りすることになるからだ。それは私が好む事態ではない。
このブログも、「伝えたい意思」というより、聞き(読み)流してもらえるだけで嬉しい。それで1〜2%くらい印象に残ったものがあれば、それがその人にとっての私(の全て)になる。
となれば、私(というイメージ)は、その、人の数だけ発生する。
そのほうが面白い。
私という人間はひとりだけれど、これを読み流した人と友人の数だけ、違う私がいて欲しい。
私がこう考えるのは、たぶん、「私」という人間の責任をとりたくないからだと思う。
ひとりの生きた人間の「責任」なんて、ただのひとりの人間でしかない私に取れるわけない。
とても不真面目で不誠実だ。ただ、ひとがひとり死んだ時の手続きやその後の後片付けなどを知ると、ヒト1人の「生きたあと」というものの大きさに怯む。
あと、2年前私は持病のアトピーで1週間入院したわけだが、私はそれを思い出すとつい、
「アトピーが落ち着いてそれはプラスだけど、入院した分を取り返せる純利益なんか出せないから、結果マイナスで生きてるんだな」
などと考えてしまう。金額的にも時間やその密度的にも。
負担になるような責任は負いたくないため、私という人間の責任を少しでも分散させたいのだ。
生きる上での軸とか、座右の銘とか、まったく興味がない。無宗教も宗教、みたいな話になるかもしれないが。
とにかく、ちゃんと生きる、みたいなことは負担だと思ってしまう。
生きるとか人生とか言われると、途方もなく遠い未来や自分が自分でコントロールできなくなった自分までも考えてしまい、「『ちゃんと』やりたくないな」と思うが、仕事は常に目の前のことだから「ちゃんとやらなきゃ」と思って真面目にやっている。
生きるとか人生とかは、『ちゃんと』やりたくない。投げ出して誰かに押し付けられるなら押し付けてしまいたい。
でもそれが出来ないから、それなりの普通を目指している。それが一番、私の中で崇高なものなのかもしれない。
本日も読んでいただき、ありがとうございます。
愛しています。