理知的とは
こんにちは。
こんばんは。
おはようございます。
flyingspaceshipです。
フィクションではない物事に対して、突発的に怒ることができたり、泣くことができる人は、感情と理解のアクセスがとても良好なのだろう。
私はそのアクセス環境が非常に悪く、頭で理解して、言葉にしてみて徐々に感情に響いてくる。そのため、実際に起きた出来事から時間が経ってしまっているため、その感情をぶつけるタイミングを失い続けている。
例えば、出来事を時系列に追って、行動の原因や理由、言葉の真意、その相互理解などを思い返す。ああ、あそこは「腹立たしいですね」「悲しいですね」など、どの場面でどんな感情になるものなのか、言葉にしてみて、出すべき感情を選べる。そのため、私の表情のわりに言葉が強い、というちぐはぐな状態になることもある。
ただ、不思議なことに、私が極度に疲れているとその感情はすぐに吐き出される。疲れているので、当然楽しくはないのか、悲しいとかはよくわからないので、だいたい怒りだ。
理解から感情、その発揮場所を瞬時に判断できる人は、シナプスの運動神経が非常に良いと思う。つまりは、頭の回転が速く、表現力、発信力がある。周囲にとっては、強い影響を与えられる存在だ。現代社会では非常に生命力があるといえるのではないだろうか。
対して私のように、無表情で「腹立たしいですねぇ」「悲しいですねぇ」などと言葉にした後、一人で考えこんで感情を沸かせてひとりくすぶっているような人間では、自分で自分のストレスを抱え込み、誰にも共感されることなく周りが想像するよりも早く神経衰弱するだけだ。これに共感し援助しろというのは非常に難題だ。
ただ、こうした私の動きは、ひとには『理知的』ととらえられるのだ。
確かに、理知的といえばそうだ。感情を頼りに言葉にしていないからだ。ただ、感情が追いつけるほどの『知』がないだけなのに。
これは喜んでいいことなのか?
これは怒っていいことなのか?
これは悲しんでいいことなのか?
これは楽しいことなのか?
それぞれの判断まで時間はまちまちだが、決してアクセスがいいとは思えない。ただ、どちらかといえば快楽主義でありながらネガティブ思考なので、喜楽に関してはアクセスが良く、時間をかけて深くマイナス思考の感情に引かれていく。
賢い生き方とは言えない。20代なかばぐらいまでは、私は『ひとまず、うまく生きたいだけ』と考えて、「うまく」やるために必死にやっていたが、どうやら処理速度も許容量も、思い描くよりずっとスペックは低いようだった。
仕事中でなければ、思ったことを感情も載せずにすぐ口にしてしまうところもあることが問題だ。まったく『知』を感じさせない行いだ。
例えば、会話の相手が「私、いまはしっかりやってますが、学生時代はやんちゃしてて」とか言われたら、何の疑問も持たずに「なるほど、性根は腐ってるんですね」と真顔で言ってしまうだろう。
なんだろう。
理性だけで、足りない『知』を補おうとして、完全にバランスを見誤っている。
本日も、愛しています。