あくをにくむ
こんにちは。
こんばんは。
おはようございます。
flyingspaceshipです。
悪に対しての憎しみが異常、と言われる私だ。
過ちをした人間を許さない、とも言われる。
確かに、悪という変な人間とは関わらなければいいだけだ、と言う人もいる。当たり前だ。私だって関わるために憎んでいるわけではない。
ただ悪はこの世が自分たちの生きていていい世界だと勘違いしているので、遭遇する確率はゼロではないのだ。衝突事故ということはある。それに既に遭っているか否かの話だ。私が痴漢に遭ったことがなくても、ほかの人は遭ったことがあれば『痴漢撲滅(殺)』と言っているのと同じだ。いや、これは遭ったことがなくても思うけど。話をしているとやはり遭ったことがあるかないかで、熱量は違う。
それに、私も許さない人間ではない。反省している人間に追い打ちをかけてわざわざ突き落とそうなどとは思わない。ただ、『過去に悪事をした』という事実を自ら公表している奴は、絶対に反省していないし、自分は世界全土から許されていると勘違いしているのだ。被害の当事者は絶対に許さないし忘れないけれど、加害の当事者は『反省事』を自分ルールで作り上げてそれを満足するまでやったら終わりにするのだ。こういう奴は、面の皮が厚いので、できる限り精神を極限まで傷つけておかないといけないと思う。
被害者は経験則から論理的に憎んでいるのだ。
だいたい、悪、とわかりきっている奴は、過去にいくらでも被害者がいる。それに気づくことも思い出すこともなく、自分は受け入れられているという前提で生命を維持している。恐らく頭が普通に悪いから記憶力に乏しいという致し方ない面もあるだろうが、基本的に当事者としての想像力が無いのだ。
だから、常に憎んでいる人間がいるということを、忘れない私は態度に出していくのだ。
これは変なことなのだろうか。
犯罪者でなくても、女を殴ったことがあるような人間には女に不意打ちで目潰し気味に殴られる経験くらいしてほしいと思う。男女が逆でもそうだ。
精神は決して鍛えられないものなのだ。どんな酷い目に遭ったからといって、また同じ酷い目に遭っても平気でいられるとか、そういうことではない。経験しているから恐怖を知って、さらに恐怖するだけだ。
そんな目に、お前も遭わせてやるよ、と思うのが私の悪への憎しみだ。
幸い、私の記憶容量は、良いことも悪いことも平等に記憶できる。悪い記憶のせいで良い記憶分が減るわけではない。
現実に勧善懲悪は存在しない。悪には同等以上の悪でなければ、減ることはなくても、増えることを防ぐことはできないと思う。
悪を憎むのは異常なことなのだろうか。
本日も、愛しています。