原風景について
こんにちは。
こんばんは。
おはようございます。
flyingsapceshipと申します。
こちらでは好きなもの、きらいなもの、気になるもの、考えたことがあれば、私ならではの少ない語彙と拙い文章で書き殴っていくスタイルでお送りしています。
親切な友人から貰ったテーマのひとつである。
「原風景」という言葉自体を、私はよく知らなかったので、調べた。
げん‐ふうけい【原風景】
原体験におけるイメージで、風景のかたちをとっているもの。
はて?
原体験とは?
げん‐たいけん【原体験】
その人の思想が固まる前の経験で、以後の思想形成に大きな影響を与えたもの。
なかなか難しいのでは!!??
すごい美しそうな感じがする。
ただ、そんな美しい情景を目にするような幼少期を過ごしていない。
ブランコから落ちて、両鼻の穴から血を流している3歳児(私)を見て、笑い転げている父の姿。
姉と喧嘩していたら、いつのまにか自分の手のひらに鉛筆が刺さってぶら下がっている光景。
クリームチーズピーナッツ。
縦にめくる自由帳。クレヨンより色鉛筆。粘土より紙粘土。
裏山と空地。
神奈川県以外に住んだことも無ければ、親戚がいなければ県外に行くことも無い。
極々狭い世界で、さらに自分の家のなか、画用紙や自由帳や絵本に向かっていることのほうが多かった。
幼いころの姉は、私と同じコミュニティに属することはなかったので、近所に友達や幼馴染がいなかったら、外に出ることは本当に稀だったかもしれない。
視野が狭い中、山や整備されていない空地や公園が気軽に行ける範囲にあったので、なんでも新鮮で、興味があった。
その当時のことは割と鮮明に覚えていて、ほかの友人には気味悪がられる。
たとえば、幼馴染のA君と級友のB君の小さな諍いなども覚えている。
父に関しては、あの記憶の時点で、決して信用に値すべき人間ではないと判断したのだろう。伸ばした手を笑われたのだから、「三つ子の魂百まで」は間違いではないなと思う。
そんなこと、と他人は言うだろう。まぁ、いい。人は私ではないのだから、それでいい。
原風景と呼べるほどの美しさは持っていないけれど、なにかと細かい記憶の断片はある。
今の『人間らしさ』は、体験、というより『記憶に残った体験』で出来上がっているのかもしれない。
それこそ、その本人の根幹に触れたという証拠でもある。
本日も読んでいただき、ありがとうございます。
愛しています。