宇宙船と砂漠で足跡

こんにちは。 こんばんは。 おはようございます。 flyingsapceshipと申します。 こちらのはてなブログでは好きなもの、きらいなもの、気になるもの、考えたことがあれば、私ならではの少ない語彙と拙い文章による書置きスタイルでお送りしようと考えています。

感情的になれなくても殴りたいときは殴るだろうよ

こんにちは。

こんばんは。

おはようございます。

flyingsapceshipと申します。

こちらでは好きなもの、きらいなもの、気になるもの、考えたことがあれば、私ならではの少ない語彙と拙い文章による書置きスタイルでお送りしています。

 

嫌いな人間のことを怒りにまかせて話そうとすると、自分が今無事に生きている以上、陳腐なこと、くだらないことで、勝手に自分が怒っているだけのようにしか感じなくなって、自分の器の小ささ、自分の人間性に罪悪を感じて憂鬱な暗い気持ちになる。

しかしよくよく考えてみると、自分自身がまともに社会生活を送っている中で出会う嫌な人間というのは、言葉や文章にすると陳腐で小さな不快感を与えるものでしかないのだ。

親を殺されたとか、村人を惨殺したとか、借金の肩代わりをさせられたとか、托卵されそうになったとか、ボールを当てる的にされたとか、そういう圧倒的にこちらが同情されるような、わかりやすい嫌な人間にエンカウントすることのほうが少ない。

 

上司に相談しようにも、友達に愚痴ろうにも、文章にしたら、陳腐で、些細な不快感でしかなくなってしまう。

そして、

「そんなことでそんなに怒らなくてもいいじゃない」

「嫌いなひとのことを考えている時間は無駄」

など、人として正しいことを言われる。愛する人や、信頼する人も、そう言うのだろう。愛する人や信頼する人は多くが『正しいひと』だからだ。

 

文章にしたら、陳腐で、些細な不快感でも、週1、週3、毎日、顔を合わせるたび、1時間おき、15分おきに、あったら、それはとてもとても嫌いになる。

親を殺さなくても、村人を惨殺していなくても、人は人を簡単に踏みにじることができる。

満員電車で他人の革靴の先を踏んで自分の立ち位置を確保するように。濡れた傘の先をスカートの裾に当てて自分の快適を得るように。

 

そういう嫌な人間に出遭ってしまった人に、「そんなことで」という言葉があるから、恫喝、暴力、痴漢がなくならないのだといつも思う。

自分より弱い人間に体当たりして通り過ぎる人間がいたり、舌打ちをして踵を大きく鳴らして歩く人間も出現する昨今だ。そういう人間に対しても、怒り狂って、味方だと思っていた人からの「そんなことで」という言葉で傷付くより、憐みの目で見るのが『正解』だという風潮に、私は痛々しさを感じる。

たとえば、日常的に舌打ちをするようなやつは、舌打ちしても「どうしたんだい?太陽みたいに笑う君はどこだい?」などと尋ねてくれるようなグッドルッキングダッドやマムのもとで育ったんだろう、などと慮ってやらねばならないのか。

 

「そんなことで」と言う代わりに、「今からそいつをこれからそいつを殴りに行こうか」と相槌を打ちたい。

「わかるわかるよ君の気持ち」などと言っても、結局自分の気持ちは自分のものなのだから、相手に簡単にわかると言ってほしくない場合もある。

だから、『今』からそいつを、『これから』そいつを殴りに行こう、と言うのが一番だ。本当に行かなくても、一緒に嫌な人間の殴り方を考えよう。まずはどこを殴るか。恐怖を植え付けるために、まずは顔だ。次に、ボディだ。身体の自由を奪う、というのも、人を深く傷付ける定石だろう。などと、暗い計画と妄想を立てる。いつでもそれをやれる、と思えば、嫌な人間と相対しても前ほど憂鬱ではない気がするものだ。

 

昔、嫌な人間に遭遇して、かなり落ち込んだり、苦しんだことがある。

怒るべき時に怒れないからだ、と思っていた。ただ、怒るべき最善の時なんか無かった。さっさと殴ればよかったのだ。

 

本日も読んでいただき、ありがとうございます。

愛しています。