アンガーマネジメントとは
こんにちは。
こんばんは。
おはようございます。
flyingspaceshipです。
キーワードを書くと情報の混乱に加担しそうで怖いので、書かない。
可能性はゼロじゃないし、そんな脆弱なシステムではないことは考えているが、余計なことに巻き込まれたくもないし、自分が余計だと考えることを作り出したくもない。
心配しずぎ、と言われるかもしれない。でもこうやって生きてきたんだ。
2020年は2月末くらいから、社会情勢が大きく変化させられている。
人の暮らす様相もそれによって変えなければいけなくなっている。
私の場合、なによりもの優先事項であった仕事も、大きくスケジュールが変わり、今はひとまず4月いっぱい出勤できない状態だ。しかし、それも確定事項ではない。いつまでか、先の見えない自宅待機だ。
会社の方針で自宅待機、簡単に言うと休暇になるが、社会情勢としては外に遊びに行くためのものではない。全体的に、自宅待機、なのだ。
正直、私はこの自宅待機をそこまで苦痛に感じていない。『必要があれば』外に出てもいいし、ひとりで運動のための外出もできる。病気の症状などが出ていなければ、そこまで大きく苦痛に感じていないし、『会社指示の自宅待機』と思うとこれも仕事のうちだ。
ただし、給料は休業手当となるため、今まで通りの給料は出ないが、それも仕方がないと理解はしている。『いつも通り』の仕事はしていないのだから、と理解している。
しかし、『本心』はまだわからない。私はこうして気持ちと理性では落ち着いていながら、時間が経つと皮膚や聴覚にストレスが懸かってくる体質だ。
私はひとりで暮らしているから、今ひとりで落ち着いていられるのだろう。
さて、今現在、自分以外の他人と暮らしているひとは、ネットとテレビを見る限り、問題も生じているらしい。
いっしょに暮している自分以外の他人、便宜上『家族』と言えばいいのかもしれない。
今の現状だと、その『家族』のほぼ全員が昼も夜もいつも自宅にいる。そのなかで、『リモートワーク』だの『テレワーク』だの『自主課題』だのに取り組んでいる。
しかし、お互いにお互いの家の外での活動にすべて理解できるわけではない。それでも、仕事場ではないところで、仕事仲間でもない人と時間と場所を共有しなければいけない。仕事場でできていたことができない場所や環境で、仕事に関することをしなければいけない。
それでもお互いに『家族』であるという、甘えというか、油断など、それらを引き起こさせるような縛りがある。
そんな中、自宅内で怒りをぶつけてしまったことで『アンガーマネジメント』について考えている友人がいた。
『アンガーマネジメント』とは、私自身よく耳にしていた。今風に言えば『自分の機嫌は自分でとる』というものだろうと理解している。
アンガー、怒りの感情と付き合い、自己管理することだ。確かに、生きて10年以上経てば、四方八方身勝手に振りかざしていい感情ではない。
50年90年生きても四方八方身勝手に振りかざすことでしか自尊心の守り方を知らない人間もいるのが、人間の多様性といえるだろう。そういう人間の自尊心はたいてい『親』にあったりするので、「親の躾がよほど良かったんですね」と言ってあげればよい。
私は、『アンガーマネジメント』のためにエネルギーを使い、疲弊してしまう危険性を考える。
「アンガーマネジメントしよう」と考える人は、振りかざしている人ではないことが大半だからで、その上『怒りすべて』を『悪』と考えていないだろうかと心配になる。
そもそも、正しい怒り方をみんな知っているのだろうか。汚い言葉を使わず、相手を傷つけず、声を荒げず、自分自身に『怒り』が内包されているということを相手に知ってもらう方法だ。相手を『叱る』とか『注意』するとかではない。善悪に分けられることではなく、自分の、自分だけの『怒り』を知ってもらう表現方法だ。
喜怒哀楽を、本当にその感情に支配された状態で、ヒトはどう『演じること』ができるというのだろうか。
私は演じ方など知らないので、言葉で相手の自尊心を傷つけるのが一番省エネな『怒り』だと思っている。
人間には感情がある。喜怒哀楽だ。
感情の変化をわかりやすく表現できる人間のほうが、そうでない人間より親しまれやすい。または、相手の感情のわずかな機微を読み取れるようになったと思うと親密になれた気になれる。
他人と他人のパーソナルスペースを縮める要因が『感情の表現』だ。だから、決して、喜怒哀楽のどれも、『悪』には至れないと私は考えているのだ。
『家族』であるという、甘えというか、油断など、それらを引き起こさせるような縛りがある。
と上記したことは、それは無意識下にあると思うし、且つ、『家族』が好きだと自覚しているひとにこそありそうだ。
そもそも甘えや油断がある相手に、喜怒哀楽を管理しなければいけないことは非常に難しいと思う。大きさのコントロールはできても、発露してしまったことを後悔したり、それを今後もしない保証を作ることは難しい。気持ちのパーソナルスペース以上に、物理的パーソナルスペースはとっくに浸食し合っているし、それを数年以上許容し合っている。
この現状で、さらには感情の発露まで管理しなければいけないとされたら、人はおかしくなるし、日常にスムーズに戻れるだろうか。
このイレギュラーな状況で、戻ってくるはずのいつもの日常を壊させてしまうのは絶対に避けたいと思う。それこそ、人間の愚かさで弱さだ。
喜怒哀楽は振りかざすものではないが、あふれてしまったものを、無理やり押し込める方法を見つけることが『善』とは思えない。
ただ、受け止めてくれる相手がいることは悪いことではないし、受け止めてくれる相手への信頼を表すという意味では、喜怒哀楽くらい、甘えてもいいのではないだろうか。
私はひとりで考えている。
本日も、愛しています。