宇宙船と砂漠で足跡

こんにちは。 こんばんは。 おはようございます。 flyingsapceshipと申します。 こちらのはてなブログでは好きなもの、きらいなもの、気になるもの、考えたことがあれば、私ならではの少ない語彙と拙い文章による書置きスタイルでお送りしようと考えています。

おばけなんかいないさ

こんにちは。

こんばんは。

おはようございます。

flyingsapceshipと申します。

こちらでは好きなもの、きらいなもの、気になるもの、考えたことがあれば、私ならではの少ない語彙と拙い文章による書置きスタイルでお送りしています。

 

ホラー作品は怖いから苦手だが、だからといって、おばけや幽霊が存在するとは一切思っていない。

 

作品として在るものは、そもそもの目的が『恐怖を与えること』なので、それに素直に『恐怖を感じる』のは当たり前なのだ。作品の目的や演出に対して、人として当たり前の反応をしているだけだ。

以前書いた、電気の点いていない風呂場の浴槽が怖いのは、浴槽からマジで怖いものが出てきたからではないし、出てくると信じているからではなく、ホラー作品の怖いワンシーンを思い出すからだ。

 

『怖いものは怖い』と私が言うのは、こういう意味だ。

 

おばけや幽霊は居ないと思っているのは、『見る』か『見ない』かの違いでしか存在を意識できないからだ。

見た人は自分の見たものを信じたらいいし、見てない人は好きに考えたらいい。

 

私は見たことがないので、『見ていないもの』は『居ないもの』とする。

 

私自身の価値観の中にこの、『見た』かどうかはかなり大きく占める。

 

『見た』なら価値を与える。

見ていないものにまで、価値を与えてやれるほど、私の人生に余暇は無い。目に見えるものだけで手一杯だ。

 

そもそも、「死後」というものに興味が無い。そんな概念でさえ不要だと思う。

死んだらなにもないから「死後」という言葉自体が矛盾していると思う。

『死んだらなにもない』、そういう希望があるから、死にたくなるのだ。いや、なっていたのだ。なにもないなら、根こそぎない方を望む。

 

だから、幽霊とかおばけとかが、在ってもらっちゃあ困るのだ。

その役が自分にも回ってくる可能性なんか、限りなくゼロを保証して欲しい。

 

どんなに恨んでも、どんなに感謝していても、死んだらなにもないのだ。なにも回ってこない。全部、オチもまとまりもなくても、終わるのだ。

 

あと、私が1番救われたのが、ヤマシタトモコ先生の漫画『さんかく窓の外側は夜』で使われた台詞だ。

 

人なんてどこででも死んでますよ

 

今いる足の下、いつかの時に、誰でも、どこにでも、人が死んだあとはあるだろう。

本当の意味で、人が死んでない場所がたくさんあるだろうか。

 

それで私は『見ていない』のだから、いないのだ。

私も死んだらいないひとになりたいので、見ないうちは信じなくていい。人生はそれどころではないので。

 

もし、身近に『見た』人がいたら、『見た』人のことは信じるが、『見た』モノの存在までは看過できない。

『見た』人のPTSDのほうが心配だからだ。

 

本日も読んでいただき、ありがとうございます。

愛しています。