宇宙船と砂漠で足跡

こんにちは。 こんばんは。 おはようございます。 flyingsapceshipと申します。 こちらのはてなブログでは好きなもの、きらいなもの、気になるもの、考えたことがあれば、私ならではの少ない語彙と拙い文章による書置きスタイルでお送りしようと考えています。

こどもと言葉について

こんにちは。

こんばんは。

おはようございます。

flyingsapceshipと申します。

こちらでは好きなもの、きらいなもの、気になるもの、考えたことがあれば、私ならではの少ない語彙と拙い文章で書き殴っていくスタイルでお送りしています。

 

ある程度、人の気色を診られるようになった年頃からは、人がどんな言葉を言おうと簡単にそれが真実だとは思わないように気をつけている。

 

逆もまた同じで、自分の真実が簡単に相手に伝わるとは思っていない。

 

ただその分、『こども』に分類される相手に使う言葉は丁寧に選ぶべきなのだ。

良くも悪くもどんな相手のどんな言葉も、こどもには『真実』になりかねないし、それがそのまま大人になっても残って、他人からの不用意なラベリングで自分を縛ってしまうだろうと思う。

将来的にその分別がついたとしても、それが出来ないうちは、疑えない相手である以上、『言葉』が『真実』になる。

 

そういう経験は、された側だけが覚えてしまう、呪いのようなものだ。それをした側は、『不用意』としか言い訳できないくらい、記憶されることはないだろう。

私も、知らぬうちに蟻を潰して歩いているように、この十数年でやったかもわからない。だから、それを責められる理由は誰にもないと思う。

 

先に歳をとったからといって、相手の未来まで現在の状況から決めつけるようなことを言ってはいけない

ついアドバイスのつもりになりがちだが、自分と他人は、別の生き方をしている、別の生き物だと思うべきだ。

 

相手の分別を覚えたころは、自分の両親でさえ、その人たちの『両親』という役割が無い世界線の想像もしていた。

そのため、私は今では両親とは基本的な会話は敬語だ。

 

同級生がどんどん親になっていくなか、私はそういうことばかりを考えて、未だに自分に自分の言葉で呪いをかけている。

 

 

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