生活と思考
こんにちは。
こんばんは。
おはようございます。
flyingsapceshipと申します。
こちらでは好きなもの、きらいなもの、気になるもの、考えたことがあれば、私ならではの少ない語彙と拙い文章で書き殴っていくスタイルでお送りしています。
2017年は、ちょうど今頃から、食欲がなくなって、年末に見事に体調を崩し、入院という予定調和を果たした。
2018年は『入院しないこと』を達成目標としている。そのため、去年のことを振り返り、まずは食事を見直すことにした。
ここ数日、節約も兼ねて自炊している。
自炊やその他生活雑事はすべて関連していて、それらは隙間時間を縫うようにして手順を組み立てることで完了し、余計な事柄が入り込む余地を限りなくゼロにする。
これが『生活する』ってことだな…、と改めて思った。
基本的に家事が身体に染み込んでいないことと、さらに自分ひとりしか世話する必要が無いと思うと、細かいことは平気で投げ出している。
特に、食事は欲が無ければ、腹が減ってないと認識しやすく、放棄しやすいのだ。
腹が減って辛くなっても、食欲が無ければ、眠ればいい。これを数週間前、休みの日何度か繰り返していたら、がっつり動けなくなった日もあった。
『生活』が下手、と友人などに言われたこともある。
調理は待ち時間も細々あるため、手順と手順の間に出来ることを加え、調理物の種類を増やす。
そうすると、作るものを買い物前までに決めておき、買い物中にそれと組み合わせ、帰り道に手順を考えて、調理が始まったらそれをまた調整しながら取り組む。慣れていないせいもあるが、炊事だけで、思考のほとんどが『生活』を占める。
この『生活の思考』は実態のある思考だ。
ただ、私は『実態の無い思考』をしている時の方が、もっとたくさんの段階と分岐を巡れるし、果てがなく、自由を感じられる。
その時は、じっとしていて、良くてノートとペンを持っている。悪くて、歩きながら歌っている。
『生活』を遂行していることに比べると、なにもしていない、なんの役にも立っていない。
『実態のある思考』をしている時は、ある意味現実的で、生産性もあり、効率的だ。ただ、決まったゴールがあるので、窮屈だ。
脳がどんどん内側に縮こまって、でも皺はどんどん飲み込まれてツルツルの質感になっていくような感覚になる。
だから、日々、『考えないと』と焦りが生まれ始めた。
なにも考えていないわけではないのに、思考は自由に巡っていないから、身体、特に首がガチガチに固まっているような気さえする。
私が日々好きに『考えて』いられるのは、『生活』を少しずつ少しずつ犠牲にするか、無視をしていたからなのだろう。
守るものや営んでいく義務を感じていない、感じることがないからできるのだとわかった。
だから、クリエイターに憧れていないのかもしれない。クリエイターとしては生きていけないと本能が察知しているのだ。
生活も思考も、やはり才能が足りない。
かなしい。
本日も読んでいただき、ありがとうございます。
愛しています。