感情の起伏について
こんにちは。
こんばんは。
おはようございます。
flyingsapceshipと申します。
こちらでは気になるものについて、私ならではの少ない語彙と拙い文章で書き殴っていくスタイルでお送りしています。
涙を流して泣くことは、皆さんはどのくらいの頻度であるのだろうか。
私の場合、いい映画やアニメ、漫画、本を見たときはそれなりに涙が出る。
怖い映画の予告はふつうに怖いからすぐチャンネルを変えるし、サンドイッチマンのコントはひとりでもずっとケタケタ笑っている。
しかし、付き合いの長い友人には『人の心がまだわかってない』など、まるでこの世に生まれたばかりの人外の生物のように喩えられる。そのほかには『効率厨ゆえに必要な笑顔だけある』とかだ。
よく友達でいてくれてるな。心の広い友達ばかりだ。
大学でできた少ない友達にも
「悲しい話を笑いながらされるの、こわいよ」
と真顔で言われた。たぶん、私としてはめちゃくちゃ面白い話だと思って話していたんだと思うが、心優しい人には悲しい話だったようだ。
喜怒哀楽はわりとはっきりある方だと思っているのだが、おそらくその発動のタイミングが合わないことが多いのかもしれない。
それが顕著に出たのが、アニメ『メイドインアビス』の最終話だった。
柔らかい絵柄とアビスの謎の描写、アニメとしての演出ともにかなり評価が高いものだ。
飛び飛びで観ていた程度だが、伏線がたくさんあって展開が楽しみだった。
最終話、Twitterで実況している人々の様子を見ると、みんなとあるシーンで『泣いて』いた。
続けて観ているとやはり、思い入れがあるんだな、と思った。
あまりにもたくさんの人が、そのシーンで『泣いた』ようなので、友人にも訊いてみた。
「あのシーン、物理的に、涙を流したってこと?」
何を言っているかわからない、と言われ、逆に「あのシーンで涙出てないの?本当に観てた?」と問いただされた。
私は、しまった、と思った。
泣いておけばよかった、と思った。
「いや、うん、いいシーンだと思ったよ…ここで『(感情の)溜め』が入るのかー…って」
と、しどろもどろに言い訳めいたことを言った。
しかし、この言い訳も言い訳にならなかった。泣いていないからだ。
しかし、飛び飛びで観ていたため、登場人物に感情移入しきれていないことが事態の敗因だったと思う。
きちんと観ていたら、もしかしたらみんなと同じく泣いていたと思う。
作品で泣くのは、そういう演出がされているのだから、泣くのは必然に近いと思っている。
しかし、怒りについては発動がいつも下手だ。
時々、Twitterで罵詈雑言とともに怒りを文章化していることもあるが、当事者に対して怒りの感情を見せることが下手だ。
怒っている自分を想像すると、必要以上に醜いと感じるからだ。
それを、相手に見せるのは嫌だった。醜い自分でいる時間を作ってまで、過失を犯した相手に怒りを見せることはどんな利益が生まれるだろうか?
時間の無駄ではないか?と思うと、全て諦めたほうが楽なのだ。
ましてや謝罪をこちらから求めたら、相手は謝罪をすれば罪が免除されると思い込むだろう。
私は執念深く陰湿なので、謝罪は求めず、一度犯した罪を免除することはない。そういう罪を犯すような奴だと思って、諦めるだけだ。
二度と同じ虚脱感に自分を晒さないために、同じ状況が来た時、相手に期待しないだけだ。
怒りはかなり体力を使うし、どのように表すかで自分自身を危機に晒すことになりかねない。罪のない自分のリスクの方が高まるのは、損だ。
怒りについては映画や漫画では、共感のうえの体現が難しい。
ただ、できればそれは発動することが少ない方がいい。
高校からの友人と、20歳頃はよく夜中に酒を飲んで、車が全然通らない広い道を歩いていたのだが、その頃本当に楽しくて、ひとりがよく喚いていた言葉がある。
『「楽しい」と「気持ち良い」がいちばん』
なにかヤバそうだが、全然ヤバくないし、私以外のふたりは人の親になった。
私はアンドロイド疑惑をかけられている。
人の親になるまでは、まずは人間の心がわからないと難しいだろう。
本日も読んでいただき、ありがとうございます。
愛しています。