わかった気について
こんにちは。
こんばんは。
おはようございます。
flyingsapceshipと申します。
こちらでは好きなもの、きらいなもの、気になるもの、考えたことについて、私ならではの少ない語彙と拙い文章で書き殴っていくスタイルでお送りしています。
『わかった気になる』ことが1番こわい。
flyingspaceshipには『こわい』と感じるものがたくさんある。そのなかでも、常日頃から『こわい』のは、『わかった気になる』ことだ。
おそろしい暗示だと思う。
自分がなる可能性も、他人がなる可能性も非常に高く、厳重に注意していないと、寸分でもその状態になることがこわい。
『わかった気になる』と最終着地はどうなるだろう。
まず、コミュニケーション、会話がなんの意味もなくなる気がする。
その人を、その事柄を、何事も、『わかった気になった』まま、ひとりで進んだらどうなるだろう?
想像する。
こわくなる。
だから、私はいくつもの可能性から考えられる見え方を伝えてみて、答え合わせをしながら話をするようにしている。
私が見ている景色と相手が見ている景色は、必ずしも同じじゃないだろう。
立っている場所が同じでも、焦点を当てているところが違うかもしれない。
それを話してから、会話を整理する。
じゃないと私のポンコツ脳では、誰にも優しくできない。
そう思って、いた。
だが、そんな私の話し方、会話の整理の仕方が気に障る人もいるだろう。
ある時は、当時お付き合いしていた人に
『自分を特別だと思ってるでしょ』
と言われた。
衝撃だった。私が彼を信頼していたからこそ、衝撃だった。
その言葉は、他人の自尊心を試すような言葉であると気付いているのだろうか?と不可解に思った。
彼は自分を、私の自尊心を試してもいい人間だと思っていたのだろうか。
それが、とても悲しくもあり、憤りを感じた。
結局は、その気持ちもなにも伝えなかったし、言わなかった。勝手に失望したからだし、信頼していた相手を勝手に失望した自分にも嫌気がさしたからだ。
その頃は、私もまだ許容量が今ほど無かった。
きっと今だったら、ヘラヘラしながら「そうなのかなぁ」とだけ、答えただろう。
他人なのだから、私の考え方すべてを理解できるとは思っていないし、思わないことが気遣いであり、気配りだと思っていた。
ただ、その態度が、『自分は特別』だという自尊心の現れ、と捉えられていても仕方がないとも言える。
それもまた、『わかった気になる』ことでもあったのだと思う。
他人は他人だと、それが気配りだと、『わかった気になって』いたのだ。
『わかった気になる』ことを避けて、対策を立てても、それもまた『わかった気になることを避ける方法をわかった気になった』だけなのだ。
いつも身に纏わりついてくる『こわさ』だ。
『わかった気になられる』ことは覚悟できるようになった。
そういう作りなのだ。
むしろ、『わかった気になって』見てもらった自分は、自分にとっては未知の景色なのだから、指摘されて勝手に失望したりしない。
私の外側はそうなんだなと自覚できる。
『わかった気にならない』と禁止事項で注意して生きるより、『わからないことがある』自覚を持って生きていたほうが自由だと思いはじめている。
『わからないこと』のほうが世界にはたくさんある。
出会った人間は、いつだって見えない宇宙が広がってる。
見えている光や暗闇がすべてとは思わない。
友人、知人の宇宙の間を浮遊している。
時々、自分の宇宙にもある星と似た惑星の中でお喋りする。
楽しい宇宙探索だ。
空飛ぶ宇宙船は、ネガティブな意味だけではないから、安心してほしい。
ふれあう人がいるだけで、ポジティブな意味にもなる。
本日も読んでいただき、ありがとうございます。
愛しています。