自己評価について
こんにちは。
こんばんは。
おはようございます。
flyingsapceshipと申します。
こちらでは考えたことを、私ならではの少ない語彙と拙い文章で書き殴っていくスタイルでお送りしています。
日々日々文章に書いていて目立つのは、私自身の自虐表現だ。
やりすぎも良くないとはわかっている。
ただ、ゴールに向かってキーボードを叩いているとスルスルと出てくるのは自分への呪詛だ。
そのほうが楽に出てくるぐらいだ。
簡潔に言うと、私は自分が好きではない。
嫌いだったらとっくに終わりに向かって準備と実行日に向かって黙って生きている。
まだ嫌いにはなっていない、というところだ。
なぜそう言い切れるのか、というと、めちゃくちゃ嫌いだった時期があるからだ。
人はそれを黒歴史という。
私はその呼び方は不適切だと感じているので、あくまで他人はそう言うものだということにしておく。
なぜなら、恥ずかしくない生き方をしている、自信満々にいまを生きている、とまでは言えないからだ。
ずっと黒歴史のなかに生きている。
ブログなんかやってるんだから当たり前だ。
Twitterなんてどの期間を指定して検索しても、読み返して恥ずかしく感じない時期なんてない。
とにかく今もなお恥ずかしい生き方をしているわけだが、少なくとも今は楽しくは生きている。
人の言う黒歴史のころは、自分のことが嫌いすぎて、自分で炊いた米でさえ気持ち悪くて食べられなかった。
新しく買った米でもめちゃくちゃ不味く感じた。
これではもう材料に申し訳ないから、ということで365日コンビニ飯か外食になった。
それでもまだ良い方で、マックスヤバス期は仕事の休憩時間以外に食事を摂ることがほとんどなかった。
仕事しているとき以外の自分に食べ物を与えるほどの価値を感じなかったのだ。
ただ、働くのはすきだった。
ブラック企業の社員はほとんどこんなもんだ。
そのマックスヤバスメンヘラ期を経て、今の自分がいる。
今は楽しく生きているし、なにより周りの人が大好きなので、迷惑をかけて困らせたくない、と思っているから、できる限り心身共に健康でいようとはしている。
しかしながら、だからといって自己評価の爆上がりはしていない。
これがなかなか難しい。
まず鏡を見る時点で自己評価が下がる。
なぜなら私の目は正気だし、美醜については明確な差があることも脳が把握しているからだ。
つまりは私の頭がまともすぎるから自己評価が上がらないのだ。
たぶん、その鏡を見るという行為で自己評価が上がっていれば、こんな話をすることもなく、インスタのストーリー(やったことないから仕組みはわからないが)を絶え間なく更新し、Twitterにはスタバのカップと自分の顔を並べて自撮りをあげ、日々の課題に向かう自分を評価し鼓舞するツイートやFacebookの更新をしていただろう。
世の中には『分相応』という言葉がある。
それを思うとどうしても、朝起きて鏡を見た時点でその日の自己評価タイムは完了する。
しかし、逆に考えてみると、そうすることで自分の失敗やリスクに保険をかけているとも言える。
つまり『自分は自分を評価なんてしていませんのでどうか皆さんは優しくしてください』と甘えているのだ。
非常に卑しく浅はかな保険だ。
ここまで思うとほとんど自分を好きにはなれない。
見事なループだ。
自分を好きになれる人はとても努力もしているし、日々朝起きた時点で大変な労力を使っていると思うから、自信がある人は眩しい。
実際に自信がある人はなにをしていても格好が良いのだ。
私も少しでも自分を好きになろうと努力しようとした時期もあった。
そして余計に嫌いになった。
これはもう時間が解決するのを待つしかない。
娘と父親のいつかの和解のように。
ちなみに私は実際の父親と10年以上前に大喧嘩をしてからほとんど和解も理解もしていない。死んでないだけありがたいとは思う。
自分にとっても同じなのだろう。
どうか、私が大好きな身の回りの人々は、それまで見守っていただけると嬉しい。
とりあえず、健康に生きることから始める。
読んでいただきありがとうございます。
愛しています。